このところ、私はサスペンスづいている。
いや、いつものことだけど。
本を読んだり、ドラマを見たり。
かなりの割合でサスペンス。

題材はほとんど、殺人事件。
ドラマや小説の定石だし、それをとやかく堅苦しいことを言っていてもしょうがないし、もはや現実のほうがひどかったりする。
それに、サスペンスでも上質な内容であれば、人間ドラマとしていろんな立場の人間に感情移入してほろり、ともくる。

さて、そんなサスペンスの殺人犯たちは、かなりの割合が複数殺人であったり連続殺人である。
彼らは保身だったり罪を隠すために、嘘を貫くために、ひとつの殺人を犯したことから次々と罪を重ね、殺人を重ねる。
そうなってこそ、エンターテイメント、という側面もあるだろうし。
罪を重ねることによって、逆に罪が露見し・・・、というパターンも数限りなし。
でも、実際の事件では、普通の人間が思い余っての犯行だったり衝動的に殺人を犯したとして、そのあともサスペンスのように振る舞うかというと、そこまでではないような気もする。
あるいは、あの境界線を超えると、なにか狂っていくんだろうか。

で、そんなことを4年前から考えることがある。
いつも頭にあるのが、ドラマ「砂の器」である。


「砂の器」の場合、本来の原作、そしてドラマの企画、脚本案を考えても、複数殺人や連続殺人が予定されていたのじゃないかな、とも思う。

けれども、あの和賀は。
ひとりの人間をあやめたことによって、深く深く袋小路に入り込み、結末に至る。
だれかを実際に、そのあとにあやめることはなかった。


これは、私にとって、とても大きい。

いろんな制約があって、ドラマはああいう展開になったり、エンターテイメントとしては物足りなくなったのかもしれないけれど、あの結果があったればこそ、私はあの和賀英良をこんなに愛しているのだと思う。


本当は、三木さんのことも、思いとどまることができたひとだった、とも思う。
そうできなかったことこそが、裁かれるべきものでありながら。
その業が悲しくてならない。

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