て、テレビに問いかけてる私ってなに・・・。(爆)

今日まで見ても、あの結末に至る鉄平さんが信じられない。
やっぱり「それを言っちゃおしめいよ」(@セロリさん、すみません)の、自ら生み出した刃のゆえなのでしょうか・・・・。

そして一方、モノづくり。
NHKのドラマ「ハゲタカ」といい、考えさせられますね。
今、この国のモノづくりは危機が叫ばれるとともに、改めて再認識されている。
私たちの世代は前の世代から受けとめてこれるのだろうか?
次の世代に伝えられるのだろうか?
な〜んてね。

法廷シーンと寧子おかあさんに違和感がある私はどうなのでしょうか。(すみません)
う、うーん・・・。
どこか肝心なところで、気持ちのベクトルが外されるのだ、このドラマの登場人物たち。

昨日の今日でなにやってんねん、な私なんですが。
今日は母の代打でお芝居見に行ってきた。
「ドライビング・ミス・デイジー」。
(1989年製作の映画がジェシカ・タンディ、モーガン・フリーマンが演じ、その年のアカデミー賞作品賞・主演女優賞・脚色賞をとったのでも有名。)
奈良岡朋子さん、仲代達矢さん主演、劇団 民藝+無名塾公演。
祖母のことがあってすぐに見たから、アトランタを舞台に1948年から1973年を背景にした、という社会派的な面というよりも・・・・ユダヤ教徒未亡人とその運転手。
ふたりの老いと減らず口(笑)と友情をしみじみと味わった。
奇しくも、主人公デイジーの72歳からラストシーンは97歳。
うちの祖母も97歳なのだった。
ふたりの役者さん。
買い求めたパンフレットのなかのコメントや、今日の舞台の上での飄々とした、寧ろ淡々とした芝居が素晴らしい。

奈良岡さんは「待たれる」役者になりたいと言われる。
うまい役者はうまいと思うけど、琴線にふれない。
いい役者はそんなにうまくないけれど丸ごと琴線に触れる。
そして「待たれる」。
・・・・さあ、誰かさんを思いませんか?(根っからのバカね、私)

仲代さんは言われる。
羞恥心をなかなか飛ばせない、コンプレックスを抱え自意識過剰で人前に出るのは難しいな、というひとが努力する方が質がいい気がする、と。
しょせん人間性が芸に出る。
それとあとはついその気になれる、フッとその気になれる。
もしこの役の人物だったら・・・?
という気になれるひとが天分があるのだ、と。

うまくやりたい、誰かになにか言われたい、そんなことばかりじゃないほうが結局はいいのだろうか。
それでも、きっとそれは葛藤を自分で通り過ぎてから掴むものなのかもしれない。
それが「人間性が芸に出る」ってことなのかな。

役者は芸術家でなく、芸人。

舞台に立つひとは、誇らしく、そう自負してるんだな。

あれ?途中から劇感想になっちゃった。

水曜日に祖母の告別式に行く予定。
・・・なんか、ヘンな感じ。

たくさんのおくやみのコメント、ありがとうございました。
またご挨拶やお返事に書きにまいります。
いつも、こんな私ですみません。

おやすみなさい。
今日、お芝居を見に行ってきました。
京都会館第二ホール、「THE WINDS OF GOD」。
今井雅之さん主演。
昨年の大阪公演に行けなかったので、やっと見られた、という感じ。
http://diarynote.jp/d/63213/20050709.html

今井さんはやっぱり、熱かった。
なのに、私ったら・・・。
2時間10分かな、みっちり芝居を見て、勉強帰りの夕方だったので、
大詰めの大詰めで、フッと意識を手放しそうになった。
自分の集中力のなさに愕然。(爆)

ツカミはやっぱり、漫才のツカミ、という感じで始まり、最初から大いに笑わせてもらったが、
「京都はシモネタだめですか」
と今井さんに困って言わせる、シモネタでは引きまくるマジメな京都のお客さんたち。(苦笑)
お世辞にもカツゼツがいいとは言い難い(というか、あれが生粋の関西弁のまくし立て、だからなあ)
関西弁のあれで、全国回ってるのかな。
あのスピードに最初ついていけないひとも、いるかもね。
(と、思ったら、これは狙いらしい!買って来たパンフレットでの今井さんの言葉によると、
臨場感を出すために、あえて現代の漫才師の台詞のシーンでは、腹式呼吸を使わない、
のだそうだ。すごい!!なるほどー。
どおりで・・・・。
それがまた、疲れるらしい。声帯をやられるそうです。
後半になると台詞が通った芝居になってたんだよな、そういえば。
呼吸法、って大事なんですよね。)

今井さんのお芝居は、ある意味予想通りでしたが、脇のふたりの役者さんが、
ものすごく、よかった。
相方の金ちゃん役と、山元少尉役のふたり。
特攻のひとたちの台詞は、今井さんが実際に取材して、
本当のひとたちの言葉を、使っているらしい。
昔の若者も今の若者も大差ないな、というのがわかる。
その一方で、「輪廻転生」と「時代、運命」という言葉がよく出てくる。
これはある意味、怖いな、と思った。
そう自分でなんとか納得させてしまったら、なんでもやっちゃいそうで。
ある意味、怖いんだよね。

芝居が終わった後に、今井さんが挨拶とメッセージを言われていて、それを聞いてて、
じわ〜っと涙が出そうになった。
芝居に不満があるとかじゃないんだけど、どちらかというとそっちの方に感銘を受けた。

18年、やってきたそうです。
18年やって来て、京都で京都会館の上演をやっとできました、
と言っていました。
題材が題材だけに、なかなか、スポンサーがつかないそうです。
(それでも、去年大阪で成功したのかな?)
今年は地元テレビ局がスポンサーにつきました。
その前は、5年前。
当時は、個人の歯医者さんが出資して京都劇場で上演できたのだそうです。
ひとつひとつの公演が宝物みたいなんだろうなあ。
その話をする今井さんを見て、思いました。
役者さんのひとりが京都出身で、舞台の真ん中に、
今井さんが引っ張り出しました。
彼にとっては凱旋公演、だったのでしょうね、
照れ汗なのか涙なのか、肘のあたりで、目のあたりを何度か
こすっていました。

今井さんは、こんなような話をしていました。

「自分は右とか左とかイロイロ言われてきたけど、
自分はどうしたらいい、とか言えないけど、
18年前に考えられないことが今、起こっています。
戦後61年じゃない、戦前、なのじゃないか、って。

憲法改正を公約にした総理大臣が、今、誕生しました。
ただひとつ言えることは、平和は一分一秒でも長あったほうが
いいんじゃないかって。
今、横で起こっていることを見なきゃだめなんじゃないか、
って。

いったん終わった「THE WINDS OF GOD」だったけど、
5年前、9・11の時に「カミカゼ アタック」という言葉が
ニュースで流れた時に、またこの芝居をやることにした。
ニューヨーク市民への攻撃は広島や長崎なのだ、と感じた。
自分にはどうだ、ということはできないけれど、ロンドンでも
国連でもニューヨークでも言ったことば、で。

【NO MORE WAR!】



もっといろんなところで芝居を見たい、と思う役者さんだが、
ライフワークというか、運命にとっつかまってしまった、
役者さんでもあるのだなあ、と、思いました。
このひとも難しいひとだと思うわ。(苦笑)
不器用そう。

中居さんも、また、ね。難しいひとだし。(一緒にはできないけど)
やりがい、いきがい、てごたえ。
そんな仕事が出来るといいね。
18年か・・・SMAPが・・・と思った私はもう、そこから離れられない。(笑)

お金を作って英語の映画を作りました、どうぞよろしく!
とのことでした。
世界配給を狙ってるけど、まず日本での配給が大変みたい。
なんか、コテコテだなあ微妙だなあ、と思ってごめんなさい。(苦笑)
サニー千葉と渡辺裕之さんが出ているよ!
なぜかニューヨークに舞台が移っているよ!
主人公がアメリカ人になっているよ!
宝石のように選ばれたひとにしか、役者になれない。
なぜなら、宝石のように透き通って素直にならなければ、神様のようにあらゆるひとになれないから。
宝石のように心が綺麗でなければ、ちがう人生に融けられないから。

けれど、それは選ばれたひと、という意味と。
誰もがきっと持っているにちがいない「心」という宝石を見出し、磨き、
自分も他人もいとおしめるひと、それこそが宝石のようなひと、という意味なのだろう。

これは、今日見てきたお芝居での、台詞。

見ていて聞いていて、全然関係ないのに、中居さんや和賀さんを思った。

「『ああ、私は今生きている!』こう思える瞬間があるんですね。ひとりでは出来ないことを私はしている、なにか無限を超えた大きな、大きな力や世界を私は生きている」
お芝居、というものを通じて、感じる世界。
舞台、という場を得てのぼりつめる世界。
ああ、なにかを作り出せるひとは、表現できる人は、光を浴びているひとは、そんなことを感じるから、大きな舞台に立てるんだな。
お芝居にしても、歌にしても、きっとそうなんだろう。

今日は、芝居というものを通して「生きる」だとか、国家と個人だとか、戦争だとか、言葉だとか。
いろんなことを考えさせられた。
今日、見たお芝居は、こまつ座の「紙屋町さくらホテル」井上ひさし作。
母の従妹のピンチヒッターで、母も入っている観劇サークルの例会でのお芝居。

物語。
戦中の実在の移動演劇隊・桜隊と、天皇の密使・長谷川清のエピソードを下敷きに、昭和二十年五月の広島・紙屋町さくらホテルを舞台に、慰問公演「無法松の一生」を演じることになる、さまざまな境遇のひとびとの群像。
戦前・戦中の近代演劇の歴史や人物のことも、生き生きと語られ、演劇論が語られるのは面白かったし、桜隊の中心的人物・スター女優園井恵子は、元タカラヅカスターであり、「すみれの花咲く頃」の歌が愛唱される。
そして、それぞれの事情で身分や名前を偽ったり監視する特高刑事や軍人たちの芝居に「毒され」ていく様と、国家といのちの輝きの中に揺れていく信念と思い。
ふたつの祖国に引き裂かれ、生きるすべを失いながらも、夢を追い求める女性。
「砂の器」の熱き管理官を演じられた辻萬長さん、が重厚な海軍大将にして陛下の密使を演じられていた。

9人だけで場面転換もないままに、3時間半。
実に面白くて、切なくて、笑って泣けた。
お芝居って、いいなあ。

「アガッてる暇なんかない。初めてお芝居を見に来るひとがこの舞台を見ているかもしれない。新しい世界を、そのひとに見せることが出来るのに、どうして芝居が出来ない、なんてことがあるものか」
という言葉は、小山内薫の言だそうな。

フィクションであろうとも芝居の中であろうとも、あの60余年前のひとびとの気持ちが、あの役者さんたちに井上ひさしさんの脚本のなかに生きて、今日のあの時間に、世界を見せてくれたように思う。

また、夏がやって来る。

繰り返し、繰り返し、思う。
あの昭和二十年の五月に、事態が変わっていたら。
ひとびとの思いが、うまく動いていたら。
少なくとも、それ以降のあの苦しみが傷が、浅くいられたかもしれないのに。
あまたの、いのちの輝きが喪われないですんだかもしれないのに。
そんな風に思う。
それまでにも、ひとは血を流しすぎて涙を流しすぎたけれど。
でも、と思ってしまう。

そして、現在。
自由であるはずなのに、私たちはどうして、今もこんなに不自由なんだろう。
明日をも知れない命、命を奪うことも奪われることも心配しないでいいはずなのに、どうしてこんなに命は簡単に殺されていくのだろう。
「義経」を見ていた。
哀しいなあ・・・。
頼朝の中井さんの演技が素晴らしかったな。
悲劇の人、まっしぐらに進んでいく者は輝きを持ち、光を放つものだけど。
その彼らを見る人たちはまた、辛いし、切ないんだろう。
物事が白黒はっきりしていて、気持ちが割り切れたらどんなに、楽だろう。
だけど、そうじゃないから、人って愛しいし、人を描く物語に、人は心を揺さぶられるのかな。

昨日、「きょうの雨 あしたの風」という芝居を見て来た。
藤沢周平の三篇の短編を一本の芝居に脚色化したもの。
私は、読んでいないものばかりだったけど、いわゆる江戸の市井もので、長屋もの。
NHKの「お江戸でござる」なみに、セットがくるくる回り、長屋の住人たちの物語が演じられる。
市井ものは、結構好きだし、筋はわかりやすいのでとても見やすかった。
昔、盗賊を働いて、今は日雇い人足となっている作十という老人は「成り行きだよ」と、博打の借金のカタに売られそうになった姉と道楽者の弟、姉の恋人をかばって命を落とす。
「こんないい死に方が出来るとは思わなかった。」と、彼は言う。
裏街道を生きていて、その後ひっそりと老いさばらえてきた、と思った男にとって、なによりの花道。「ありがとう」と言う、晴れ晴れした面持ちがなんとも、芝居を見た!!って感じの見得切り。
そういうメインストーリーとはまた別に、とっても、心に引っかかってうーむ、と唸らせるのが、三篇の短編のうちの「おばさん」(『時雨みち』収録)部分の話。
ひとり地味に暮らす寡婦のおときが、倒れている若い男幸太を助け、幸太は、おときひとり暮らしの長屋に転がり込んでくる。
ひとより老けて見える女は、息子くらいの男と、のっぴきならない関係になるが、勝手な男は若い女に心を移す。
自分がおときの養子になり若い女を嫁に迎えたらいい、という男の言葉に(関係を持つ前におときが口にしたこととはいえ)、一瞬の激情に襲われるおとき。
のぼせ上がった男を諌めても収まらないのを知ったおときは、男が出て行くのを見送る。
日常の中の、非日常、刹那の激情。
そんなものが、なかなかニクい。

私、年末大型時代劇とかで、つよぽんが英雄ものやるより、彼には、こういう市井ものだとか武家ものだとかを、しみじみやってほしいと思うなあ。
出来れば、NHKあたりで。(笑)いかがでしょう。

>MAYUKOさん
はい、途中でちょっと寝てしまいました。(笑)
気持ちいいんだもん、劇場って。(おい)

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