「風立ちぬ」を水曜日に観て来ました。
あれから、ユーミンの「ひこうき雲」がずっと頭の中で流れています。
ティーンズのユーミンの曲、ほんと私全然知らなかったもので、この映画のための歌かと一瞬、思ったのですが、映画のラストで流れた歌はオリジナル?
歌の感じ、声の感じで「あ、これは前からある歌かな」とも。
どっかで聞いたことあるのかなあ~

それにしても、本当にハマっていてビックリします。
ユーミンはほんとに天才です。
そして、歌の出来た経緯を知り、鳥肌が立ちました。

この映画は、映画館で見るべき!
ホームシアターでバッチリ見られる方はある程度再現は出来るかも知れませんが・・。

毎回ジブリ映画などを見て、作画・音楽・効果などはもちろん感心しますが、でも、実は、中学生の時に見た、学校から引率されて行った平凡な音も映像もたいしたことないあの公営のホールのスクリーンで見た、ナウシカ。
自分が飛び上がるようなあの飛翔感に勝るものは、実はありません。
十代の頃の自分の感性がそれからの経験を上回っているということなんでしょう。

それでも、今回もいろいろと拘りを感じました。
あと、動きがふわりふわりと滑らかな感じを終始、感じました。
「戦闘機」でさえ、その攻撃性をなんとか抑えようとされているのか、と。

見ていて、いろんなことを考え、感じました。
「大人向け」ということでしたが、これは所謂精神年齢を問うような気がします。
私は、たぶん、60%も理解できていないだろうな、というそういう課題残し感も感じます。
でも、本でもそうなんですが、一回でわからなくてもいいし、感じるままでも十分伝わるものもあるし、あるいは人生においてそれぞれの時期でわかることがあるような気がします。
そういう意味では、早熟な方や感性瑞々しい方だったら、小学校高学年や中学生でも十分楽しめると思います。
ただ、受け付けられない人は大人でも難しいのかな、なんて思いました。


しかし、菜穂子さんの存在で、いろんなことを凌駕してしまうかも。
宮崎アニメの永遠のヒロインみたいな人なのかなあ、とも思い。
日本女性の美しさとも感じ。
菜穂子さんだけでなく、この作品の女性陣はとても素敵。
主人公やほかの登場人物にもどかしさや、もやもやが残ったところがあっても、二郎のお母さまや妹さん、菜穂子さんのところの女中さん、上司の奥様。
これらのひとたちがとても素敵。
素敵、素敵書いてますが、そうとしか。(笑)

賛否両論、外国での評価はどうか。
鈴木Pご本人が言ってましたが、「この題材を映画化していいか」。

そういうことと、主人公を始めとする登場人物たちの「生きる」姿と言葉には、いろんなもどかしさと矛盾は、宮崎駿のエゴであり良識であるように思う。
葛藤がないわけないのだけれど、いわゆる声の演技で見せることを「否定」している。
感情がないんじゃないか、と思わせるあの声。
えらく独特で、これが最大の主張なのかな、と思わせる。
まったく良いとも思えないし、好感は持たないが、なんだかそれがあの二郎なんだな。
「生きなさい」「生きねば」という割には、あまり熱情を感じない。

夢が、繰り返し訪れる。
夢か現か。
黒澤明の「夢」を思い出す。
夢は、将来や希望だけでなく不安や恐怖も浮かび上がる。

タイミング的に、今、これに合わせての企画や脚本かと思ったけれど、後から後からピタッと嵌っていったらしい。
クリエイターの業として、あの震災までも「自分に追いついた」というニュアンスを言ってしまったという不謹慎な噂もある宮崎監督。
日本人の私も感じるエゴや矛盾、生まれた土地や国を愛する心、懐かしむ気持ち、あたりまえのことではあるかもしれない。
今、戦争を体験したひとたちが少なくなったことやあらゆる場面から一線を退いたことによって、戦後数十年の間、各国共通してあった戦争の苦難の実感。
これがないことが、皮肉なことに国家間での軋轢を招いて、相互理解をしてお互いを譲ることが出来ないでいるような気がする。
戦争をするまでも、日本が各国と戦争することの無謀さや悲惨さを多くの国民が根底ではわかっていた。望んでいなかった。
でも、閉塞感を感じた。
望みや希望を叶えることと、戦争とをなんとか合理化してしまった。

「生きる」ということは、それぞれの分や立場でちがってくるものではあるけれど、それぞれを否定できるものでもない。
でも、理想は持っていたいものだな、とも感じた。



今日はレディースデイでしたので、「十三人の刺客」を見てきました。


「七人の侍」+「忠臣蔵」のような、伝統的時代劇エンターテイメント、な映画でした。
ものすごーく真面目な登場人物、キャラクター順々に揃っていく活劇のなか、吾郎さんと伊勢谷さんだけがちょいと異彩を放っておりました。

吾郎さんの殿様がよくって、ですね。
冷血な私にとっては、非道な姿も「うーん、まあ、暴虐の殿としてはこれくらいやっちゃうかー」なぞと考えてしまったわけなんですが、なんつーても、なんでしょうね、あの感じ。(音はゾクゾクきますがね・・・あまりこう、直接的表現はない)
ちょっと、ピースにも通じるものがあるんですが・・・。
悪行に酔いしれてもいないし、暗愚でもないし、人格破綻者でもないんですね。

他の人物たちがある意味、すごい「わかりやすい」なか、確かにこの殿様のアンダーグラウンド、とかの想像を逞しくさせる。
吾郎さんの演技がそれを誘発するのです。
饒舌でもなく小難しくもなく大袈裟でもなく存在で、ですから流石じゃないですかね。

この殿様はとても冴えてるし、怜悧だし、なんだか武芸も学問もなんでも出来まくりそうなんですね・・・。
でも、このひとは、多分、家斉の二十六番目、という感じで。
きっと、えらいことになってる大奥育ち、でもあり。
多分、生まれた時から物凄い修羅の世界を知っているであろう、とも思えるわけで。
しかし、この殿様は運良く五体満足に健康的に育ち、大奥から出られて。
あまり大きくないとはいえ明石藩という一国一城の主になれて。
しかも来年には老中に・・という身分役職であれば、うまく才覚を活かすひとであれば、将軍なんざ目じゃないくらいに辣腕を振るえるかもしれないわけで。
さらに、頭がよく度胸があれば、国を救える立場でもあった、というわけなんよね。深読みすれば。

けれど、殿様といったら、現代のどうしようもない使えない頭でっかちの劇場型犯罪を犯す若者みたいな人ですから。
自己意識過剰、周りを挑発しまくっている。
明石藩のもともとの後継者を押しのけて、無理矢理幕府が据え置いた若殿の劇場型自殺。
吾郎さんはこの殿を「ダースベーダー」に例えていたけれど、私はかの西周の傾国の美女「褒?」を思い出す。
彼女の一笑のために国が滅んだ、というアレ。
まあ、殿様の場合は自分が動き回って笑いたかった、っていうもんですけれども、しかも別に国は滅んでないし。(笑)

それにしたって、この殿様への刺客、ここまで大掛かりにしなくったって、かの藤沢先生原作のシリーズなんかだと、伝説の剣法なんぞを使った遣い手が暗躍して城内にて暗殺して終わり、な感じがするんですけどもね・・・。


という、なんとも殿様中心の見方をしてしまった、映画なのでした。


現実の、江戸時代の使えない殿様は、もっとひどいことになってそうなんですけどもね・・・。(暗愚とかの場合が多いけども)


映像としてはラストの斬り合いは凄かったです、なんだかんだいって。
CG使ってあるところは笑ってしまいましたが(やっぱり、黒澤映画とか思い出すとね・・・)、殺陣は凄まじいですね。
今、テレビでこういうのを大々的にしないですもんねえ・・・。


監督の、目、眼、瞳の映し方のこだわりが随所にありました。

ハマります

2010年1月27日 映画
最近、テレビなどで映画三昧です。
BSとかも、なんですけども。

昨夜は森田監督の「間宮兄弟」と小津監督の「麦秋」とか・・・。

で、お昼は遅ればせながら、「私は貝になりたい」のBD,DVDを見ていたんですが。
やっと、特典映像を見た。

やっば~~~~~
ほんまに、これとかって、映画館で見た後でよかったわ~~~
先に見たらやばかった~~~~~

もう、中居さんがキュートでラブリーでたまりまへん。(ヨダレ)
ファンじゃなかったら、あの天邪鬼発言だとかちょいちょいカマしてる感じだとかが、読み取れないかも~~、という気もするんだけど。
改めて見て、メイキングとはともかくとして(あ、メイキングも素敵でしたよね、思ったより共演者たちとの交流もあって)
キャンペーン中の楽しそうなこと。
あれも、カメラの前の顔、なんでしょうが、ほんとにスッキリした顔していてね~屈託ないんですもん。
よほど、監督とかスタッフさんとイイ感じだったのでしょうね。
それに、各局のみなさんとの感じ、もね。

どんな映画だとか公演だとか、についても。
テレビ局やラジオ局は毎日毎日、いろんなものを紹介しているんですよ、ね。
で、もちろん、いつも皆さん、お仕事だけどもそれなりに情熱とか自分のことばで伝えようと日々されているわけなんだけど、も。
中居さんがやって来て・・・、というのはほんとにやりがいもあったろうし、盛り上がれたと思うんですよね。
言葉だけじゃなくって、やっぱり人間ですもん、顔見て話して。
そういうのがね、よかったんじゃないかなあ、って改めて思いました。

映画についても・・・
もっと、いろんな風に感じて噛み砕いていきたいなあ、と思っています。

改めて、込み上げるものがありました。

京都は祇園会館で、見てまいりました。

この映画はこうした、映画館の方が似合う。
シネコンではなく、こんな感じの映画館。

満員御礼、勝手に席じゃないところに座り込むひと、お弁当たべてるひと。(笑)
どかんどかん、笑いが渦巻き、その笑いが、フライング(自分で展開を先に予想してひとりで笑う)笑い、後引くひとり笑い(いつまで笑ってんだ!)おおきなひとりごとだらけ、まったく、計算されていない統率されていない笑い。
トランポリンのくだりなんて、やんややんやの喝采なみの爆笑でしたよ。
そんななかだからこそ、楽しめる感じ、かな。

三谷さんはやっぱり、ストーリー展開でうまくひとを引き込むが、映画の画面は活かしきれていない。
わざとなのかもしれないけど。
憧れ、大好き、すげー楽しい、感は伝わってまいりますが。

そこのあたり、佐藤浩市さんはとてもうまいし、ぴったりだけども、もう少しなんとか、できそうで。

でも、この、いきわたっていない感のところが、また、今回の題材ではまあ、よかったのではないかと。


ふかっちゃんと、妻夫木くんと、西田さんが、うまい。
失礼ながら、妻夫木くんは初めて「うまい」と思った。(笑)
やはり、映画によく起用される若手でトップなだけはある。

西田さんは、出てくるだけで、もう、観客一同、大喜び。(大笑)

甘酸っぱい、こそばゆい気持ちのする、「ザ・マジックアワー」。
そして、ニュー・シネマ・パラダイスのオマージュの、ラッシュを眺める主人公。
三谷さんは、映画にも憧れと熱い気持ちがいっぱい、あるひとなんですな。
マニアックさはイマイチ、感じなかったけど。
日本アカデミー賞での、いたたまれなさそうな、優秀監督賞でのスピーチと立ってる姿。
シャイな性格だけでは、なく、映画好きにはもう、なんともくすぐったい心地だったのだろうなあ。

深読みしなくてもいい、わっかりやすいコメディ、そしてハートフル。
鬱憤が多い時は、心地いい。

BSで見ました。
あの、妙な地上波の解説がないからずっとよかった。(笑)
やはり、仲間さんのただならぬ緊迫感とたたずまいに胸が詰まる。
インタビュアーの鈴江アナがつげる言葉が出ないようだった。

優秀撮影、優秀照明賞おめでとうございます。
仲間さんと同じテーブルに共にいらっしゃって。
登場の時は手を取り合っていましたね。
樹木希林さんの締めの言葉がよかったなあ。
司会するために受賞作品をすべて見られたこと、映画を見てみんなが映画好きなんだと思われたこと、いつもふらりと来て悪態ついていたけれどアカデミー賞の運営に携わる皆さんのことを知って感謝すること。
しみじみと。

会場は結構狭くて、テーブル席の後ろにはずらりと椅子を並べ座っているひとたち。
チープかもしれないが今はこんな感じなものかもしれない。

おくりびとのアメリカのアカデミー賞での受賞。
あの場所やその後ろのひとたちの明かりになるかな。

まずは国内が活気づいている。
思い詰めたような、張り詰めた仲間さん。
なにか壁に突き当たってるような。


横に豊さんが。
中居さんがいたら…

房江さん
「私は貝になりたい」を見に行きました。
上映はもういちにちに1回きりになっていたので、前回と同じところに見に行ったら、部屋が変わってた。
まるで、プライベートな空間、映写室のような大きさの部屋でした。
でも、なんともその大きさがよくて、とても自分だけの世界に入り込めた。

そこに、ほぼ満席に近いくらいひとがいました。

とても、よかった。
今までで、一番素直に見れたかなあ。

3回目に見ると、先がわかるので・・・
チェンジブロックのシーンが胸が痛くて痛くて・・・・

そして、今回とても気になった。

刑場にむかう豊松の服が破れ、湿って、汚れていること。
豊松の顔と手の汚れ。

遺書を書いてから、なにが。
いったいなにがあったんだろう。


豊松は最後まで諦めなかったんだろうか。
生きることを、帰ることを。

かつての日本人の潔さだとか、美学に反するのかもしれないけど、そんななにかがあったんだろうか。

でも、あれほどに善良で素直で魅力的な、この世でただひとりのひとが、あれだけの不条理に抗うのは、それは人間として当たり前のことだと思う。

遺書を書いていたあの目。
人間の目じゃない、と思ったけれど、数回まばたきもし、ゆがみもしている。
人間の、目だ。

あの目はこの世の悪を、不条理を憎む仏の目だとも思った。
澄んだ青く光るあの目。
イエス・キリストの目とはちがうなあ・・・・。


そして、あの最後の、首に紐がかけられながらも、愛する者を見つめる目。

あれもまた、仏の目だ。

仏は、ひとのうちにある。



Mr.Childrenの主題歌。


『別の姿で 同じ眼差しで
あなたはきっとまた会いに来てくれる』

花の匂い Mr.Children 歌詞情報 - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND71290/index.html




という歌詞が、とても心に沁みた。



うらみつらみではあるのだけれど、もっと普遍的な、ねっこの思い。
と、「私は貝になりたい」を観終わってから、ずっと思っていた。

でも、それだけではない、あの刑場の豊松は、そのあとに、どこかちがうところにも、至っていた。

「私は貝になりたい」
「生まれ変わりたい」
と自分ではじめに望んだわけではなく。

問われていたのですね、豊松は。

せめて来世に思いを馳せて・・・、という教誨師の願いはむなしく。
それさえもまた、苦しめる哀しませる。
でも、ひとつの気のいきようにはなったのか。

けれども、彼は、
「帰りたい」
「会いたい」
「房江は、あの子らはどうなるのだろう」
その思いだけしか、なかった。

「どうしても生まれ変わらなければならないなら」
の「どうしても」、というのが重い。







深い深い海の底で、岩についた貝にならなければ、
房江、健一、直子のことを心配しつづけるだろう。

ひととして生まれ変わったら。
房江や健一や直子のことを心配して、探し続けるだろう。
きっと、忘れられやしないだろう。


ああ、そうだ。
忘れることはなくて、おぼえていよう。
ずっとおぼえていたら。


また、いつか。

「いきいき」1月号が届きました。

日野原先生と中居さんの対談です。
日野原先生、試写を見られてその足で中居さんの待つ部屋へ・・・・。
なんと贅沢な方でしょうか。(笑)
見る方が見たら、中居さんのほうが贅沢な方、と言うべきなのかも知れませんが。

数日前に私は「男たちのしわぶき」というタイトルで、「私は貝になりたい」を上映していた映画館で感じたことを書きました。
あの時代を生きた観客─ことに男性たちの、この映画を見ての慨嘆のさまを感じたような気がしたことを書きました。
あの時にその観客たちに聞いてみたかった、ことばや感想をこの対談で読めた、と思いました。

日野原先生と豊松はほぼ同じ年齢、だということだった。
先生は若い頃に結核をわずらったことがあって丙種合格─いわば予備役のような存在であり、兵に採られていなかった。
この丙種合格というのは、豊松が足が悪かったせいでまだ徴兵されていなかった、という設定でもそういうことになっていたわけだけども。
私の親戚のなかでも視力や目の先天性な軽いハンディキャップのあるひとは同じことがあった、と聞いていたことがあった。
豊松のように、誰の目から見てもそうであればまだわかりやすいところはあるのだけれど、日野原先生や私の親戚のように一見して、そうとわからないひとたちというのは、ある意味、とても肩身が狭い場面もあった、とも聞いていた。
ただし、先生は軍医として募集に応募し(4週間訓練を受けたら少尉になれるとのこと)訓練を受けたとのことだった。
その時の体験が、豊松の訓練と重なって、誇張がない実感のあるシーンとして、一気にその当時のことが自分の中でよみがえった、とのことだった。
私の親戚は、いよいよ自分も行かねばならない、と思っていた頃に、親が心配してなけなしの蓄えで幾つも幾つも眼鏡を拵えて備えていたとのことだった。
私の父が虚弱で小さくて3歳近くまでひとりで走るのもままならぬ、発育不良な小さな赤ちゃんだった時代、のことだ。


日野原先生は、いつも対談では遠慮なく率直な質問や意見を言われていて興味深いのだけれども、
「高知は南の土地なのに、あんなに雪が深いところがあるの?」
とのご質問。
これには、監督が
「実は、四国山脈の梼原では1メートルくらい積もるんです」
とのこと。
あと、ちょっと気になったところとして、ふたつ。
「裁判は冷静に進行するものです。でも、あなたや日本側のひとたちはいいのですが、アメリカ側の判事が感情的で、演出が行き過ぎていたんじゃないかなあ。」
「もうひとつは、中居さんが「よさこい」を歌うシーンです。」
でも、それが音が外れていたというかそういうのよりも
「もうちょっと、元気な方がいいと思った」

いやあ、ほんまに気になるところズバリ、ですね。(笑)
さすが、日野原先生なのでした。

中居さんの返答として「よさこい」はもっとアグレッシブに歌っていたけれども、監督に「音程を重視しろ」とダメだしを受けていた、とのこと。
音程の話から、なんともファンには寂しい中居さんの言葉はありましたが・・・、日野原先生は、きちんとよく見てくださっています。

「よさこい」はあの頃のひとたちの愛唱歌、だったのですね。
必然性があったんですね。
そういう実感も、あったんですね。

それから、中居さんと話すとソフトな感じを受けるんだけど、映画はとても熱演で、芯が強かったね。とも。

「非常に目が輝いていて、鋭かった。あなたの迫力が伝わってきました。今まで私が観た戦争映画のなかでいちばんよかったよ。」
「あなたは目が素晴らしい。芯の強い輝きを放っていて、目が離せませんでした」

世界中のひとに見せたい、とも言ってくださいました。

最後の結びもよかったです。

「あなたは自信をもっていいんです。さあ、私もあなたも、また新しい仕事に向かわなければ。」


「いきいき」2009年1月号 ユーリーグ株式会社発行
(6ページ~12ページより引用、中略あり)
※著作権等の考慮はしておりますが、ご指摘を受けましたら削除いたします。



今日、また「私は貝になりたい」を見に行った。

この映画の前売り券を5枚ライブ会場で買ったのだが、無事すべて同行者や知る辺の手にわたることになった。
「誘われなかったら行かなかったよ」
「テレビを見てたら、見ようかと思って」
「こういうのも見ておかなきゃ、と思うよね」
などと言われましたが、予想していたよりもずっと、潜在的な関心が高い映画だということがよくわかった。
これは、本当に本当に、中居さんのがんばりだと思います。
主演俳優の熱意はきっと、周囲を動かしたととも思うから。
だから私も関係者気分で「ありがとうございま~す」と張り切ってチケットお渡ししています。
少しは貢献できたかしら?
だから、今日はなんというか、私は1800円はたいちゃったわ。(笑)


さて、今日の映画館は大阪府内のシネコン。
この間、初めて見に行ったのは京都の、わりと古くなってしまった映画館だったわけで、それでも十分だったように思ったけど、「これはきっと、新しいところだともっといい音なんだろうな、聞き取りやすいんだろうな」と思ってはいたけど、いやー、たまげた。
すごかった。
技術の高い状態で作られた映画は、その映写装置の質が高くないと、活き切れないんだな、とつくづく。
今日は席も前方で、ど真ん中で、スクリーンは大きくとても鮮明。
少しは余裕もできて、台詞はよりよく聞き取れたし、音楽の効果もより一層感じた。
でも、不思議。
時間の流れ方や、集中力や見ているもののこだわり方は、前回と今回はちがっていて、どちらがどちら、のときがよかったともいえないんだな、これが。
そこが監督や脚本の仕掛け、というか・・・よく出来ているなあ、とも妙に冷静に感じたところでもある。


たとえば、お団子が浮いてるおつゆの夕食での健坊が「お弔いがあったらいいのに」という台詞。
これ、前は聞き取れなかった。
ご飯を貰って、お腹一杯になるよ、と。
それを聞いた父母の顔。
これがもうちょっとちがうパターンだと「お前はなにをゆーとるんじゃー!」バツーン、みたいなね。
まあ、それにしても健坊が無邪気なので、そんな気になれずにふたりとも黙り込んじゃう、っていう。
「どうにかしてやれよ」、って父は言ってしまう。
・・・で、父が徴兵されるにあたっての送別会。
台所で、満足げに無心に白いおにぎりを頬張る健坊・・・。

とかそういうのとか、いろいろ細かいところまで目が行くようになった。
1回見ただけで、よくわかってた気がするけれども、気づくところは多い。

でも、書きたい事はあっても、まとまりませんなー。なかなか。
ちゃんとして、もっと書いていきたい。


余裕があるといえば、周りのことも。
前回も別に周りが見えなかったわけではないのだが・・・・。
前回と今回と、共通して気になったこと。

それは男たちのしわぶき。

緊迫感のある映画のせいか、観客はホッとしたいという心理でも働くのか、明るい場面、おかしみのある場面では驚くくらいに笑いの波が起こり飛びつく感じの反応があったりしたのだけど、それ以外はとても静か。
そんな空気ではあるのだけれど。
その静けさのなかで、独特の男の人のしわぶき・・・咳払い、呻きのようなため息が幾つも聞かれる。
女性のすすり泣きや声はほとんど耳にしないのに、前方に居ても横や後ろから、男たちのそれらの音が不思議と響いていた。

それらの音はどこで響くかというと、冒頭の送別のところだったり、面会室のところだったり、最後の手紙だったりする。
私にはタイミング的に生理的なものばかりではないように思われた。
思わず出てしまった慨嘆ではないかな、と思われてならなかったわけです。

席に着くときや、終わってからの気配で感じた。
それらの音を出していたひとたちの多くは、私の父やそれ以上の年代ではないかな、と。
父は、ちょうど健坊のころであったろうし、直子は母くらいではないかな、と。
なんだか、無性にその方たちの言葉を聞きたいように思った。
あれには、いろんなものが込められている気がするから。
あの時代を描くことによって戦争の不条理や理不尽さはどう受けとめられたのか?
それを聞きたいように思った。

そんなことを思いながらも、やっぱりこの映画を見ていて思うのは、とても普遍的なものも描いているということ。
中居さんも言われていますが、これは今も起こり続けているのではないか、とも思う。
戦争の理不尽さ、というのとともに、これは世の中の不条理も描かれているような気がする。
私は見ていないけれど、前作もきっとそれは同じなんだろうけれど、今回は特に。
そのあたりは、より厚みと拡大された主題を含めたのだろうな、とも思う。
そうして、確かにこの映画は「キネマ旬報」の樋口氏の評論にあるようにある種の「大味」になったきらいはあったのだけれども、私は今日買ってきた文庫本のシナリオでの保阪氏の解説を読んで、その問題についてはストンと腑に落ちた。
私にとっては、この解説文がもっともしっくりとくる評であり解説であるように思う。


私の隣の席の家族連れのこと。
大丈夫かしら、お子さんたち・・・。(といっても、小学高学年と中学生くらい)
と思っていましたが、最後のあたりで「えっ?」と男の子が驚いて声をあげていた。
それも、かなり経った場面で・・・・。
最後の最後にどんでん返しがあると思っていたのかなあ。
取り返しがつかないことって本当にあっけなくあるんだ、とびっくりしていたようなタイミングだった。

いやあ、それがなんとも心に残りました。

そっかあ・・・、と。

いずれも、勝手に私が感じた周囲の観客の反応なのだった。

・・・うーん、中途半端な感想文だ。(苦笑)
また、続きはいずれ。(え)



最後。
もう一声(?)

中居さん、声すっごい、いいよね・・・・。
でも、ほんまに独特。
あの深み、古い映画館では活かしきれてなかったんだ。
でもあの味ったら、ほんとに素晴らしい。

滑舌はこれまでで一番。

そして、品がいい。
なんで、こんなにこのひとはどんな時にも品がいいんだろう、って思ってしまう。(イタい?)
これが無垢、ってとこなんだろうなあ、とも。
中居正広のオーラと香りが役に漂うとしたら、この品なのだと思う。

拒む映画

2008年11月22日 映画
「私は貝になりたい」を見に行った。

できるだけ先入観や思い入れを持たずに見よう、と思って行ったけれど、それは正解だったと思う。
それでも、どうしても冷静には見られないと思った。
今まで、中居正広を何年も自分なりに見続けて大好きだったから、それは絶対なんだと思い込んでいたけれど・・・。

ある意味で、裏切られた。


この映画は、多分な涙や多分な感情移入を拒む映画、だと思った。
きっと、中居正広の映画!と思うのも拒もうとしている映画。
(でも、これはファンであるからなのかなあ、とも思った。事実、一緒に行った友達は中居クンの映画だと思って見ていた、と言っていたし、オールスターキャスト過ぎた、と言った。)


とてもテンポが速く、天国から地獄、地獄から天国・・・といった具合にアップダウンが激しい。
そのなかでの豊松・房江ふたりのお互いの存在の有様がとても必然。
恋慕う思いの強さ、子供への情の描き方。
それは十分に感動的で、今も思い出すとジーン、とくる。
表情も背景も申し分もなく美しく輝いている。
哀しいシーンでさえ、も。

けれども、ぐーっと思いと感情が高まるピークの来る前に、すっと次のシークエンスに移る。
唐突でもないし、驚くほどでもないし、集中力が途切れないのに、それはすっと進んでいく。
豊松が逮捕されるまでの流れのあたりは特に、理路整然としているのか時系列が前後しているのかさえ、今もよくわからないけれども、驚くほどに脳の中で、それからサーッと頭と胸に理屈でなく刷り込まれる。


・・・だめだな、なんかまだうまく書けない。


友人4人と見終わって、あれこれと話したこともあったけれど、それまたいずれ。


清水豊松という人物は、ステレオタイプな人間ではない。
「清水豊松」というひと、ほかでもない、唯一無二なひとである、と感じる。
ひととは、その人以外ではありえない。
だから、清水豊松のことばは、清水豊松そのひとそのもの、なのだと思った。
誰かが同じことを言ったとしても、きっとそれはちがうのだ。
そんなことを、今日はじめて知ったような気がする。
豊松の手紙のことばも、話したことばも、みな、そう。

清水豊松が、大西や矢野と決定的にちがったもの。
それは罪の意識・・・少なくとも、死をもって贖ったり意義を感じるもの。
そんなものは、どうしても彼は持つはずはなかった。



偶然だろうか、中居正広の声と空。
ラストシーンと手紙、未来。
私は、もう一本の主演映画を思い出していた。

さっきまで黒澤明監督の「わが青春に悔いなし」を見ていた。

いやあ、すっごい。

原節子、すっごい。

見ていて「和製スカーレット・オハラね」なーんて思いながら見ていたけど、なんのなんの。
スカーレットより余程、力強いヒロインだ。

大和撫子、永遠の処女。
「東京物語」と「晩春」、「麦秋」の彼女とはまたちがう。

もともと、バタ臭い、豊満で洋画の女優みたいなシルエットと顔立ちの美女(鼻筋なんて完璧!)
だが、この映画での、
気紛れにみえる教授令嬢⇒戦中の職業婦人⇒獄中の人妻⇒地方の農婦
それぞれの、迫力ある品高さと美しさ、と瞳の力。
しなやかで存在感ある姿態。
まさに「生命力ある」その力は「心配するだけ無駄」なくらいの強さだ。

社会派の戦後まもなくのいろんなイデオロギーを主題としているわけだけど、周りの男たちなんぞより、この原節子と義母役の杉村春子のがむしゃらな逞しさ、これが、なんともすごい迫力。
昭和21年製作のこの映画は、なにかしらの問題は含みつつ・・・この迫力はさすがは、黒澤、てとこかな。

ちなみにこの映画での「京大事件」はフィクション。
とはいえ、有名な「滝川事件」を元にしたものであるのは確かで、ラストシーンはまさに・・・。
「日本沈没」あとに流れました・・・。
たしか、『TBS映画新作情報』とタイトルが出ていました。
いよいよですね〜

胸がドキドキしてしまった。
ああ、泣きっぱなし。(苦笑)

それにしても、テレビ放映の「日本沈没」のCMの多さ!
ばかんばかんばかん!
TBSよ、番宣したいのはわかるけどーーーー!!
編集に愛をくれ!!(難しいのかもな・・・・)

映画の剛は一番セクシー。
映画館で見たときの感想はコレ。http://diarynote.jp/d/63213/20060903.html

やっぱり、この映画は小野寺(剛)の最期の走馬灯を映像化したのだというのに一票。(笑)

(ブログかいてんじゃん)←バシッ
前にも書いたことがあるかもしれないんだけど、「タイタニック」のラストシーンが大好きだ。

老いたローズがふたたび、タイタニックに帰る。
もう、そこには苦しみも悲しみもない。
優雅な給仕が、ドアを開けると食堂に、乗客も船員たちもみな居る。
もう、そこには何等客だとか、男女だとか、貧富も人種の区別もない。
罪があるひとも、無垢だったひとも、過ちを犯した人も、高潔な魂のひとも。

みな、彼らはローズを笑顔と拍手で迎える。

きっと、罪悪感とトラウマを抱えて生きた、数多くの生存者もまた、同じように迎え入れられたんじゃないか、っていう想像とともに、何度見ても泣いてしまう。

この映画が公開された後に、タイタニックの遺品展を見に行ったことがある。
見に行くと、それは、見ていて見るのが申し訳ない気持ちになったくらい、日常的な品々と記録だった。
ただひとり日本人乗客として生存した細野正文氏の手記もあった。
細野氏は、当時の差別的視点で誤ってある乗客に記憶され、喧伝され、その行いを非難されてきたという。
記憶されたその行い自体が誤りであることが証明され、彼の名誉回復が成ったのは、この映画の公開年だった。1997年。
彼は積極的な弁明も行わずに、過ごされたという。
詳細は知らないけれど、あの体験のなか生き残ったことに対して、ある種の責任感を持たれていたのかもしれない。

タイタニック号事件は、昔、中学生の時に英語の教科書にテキストが載っていた。
あの頃もまだ、彼は誤解を受けたままだったのだ。

この映画の監督作品は、本当にヒロインが強くてポジティブだ。
(ローズの場合は小憎たらしいおばあちゃんになるくらいにね 爆)

昨夜、今夜と続けてみたわけじゃないけど、そんなことを思っていたり。
父と見た最後の映画でもある。

「刑事の現場」を見た。
寺尾さん、素敵だ。
渋くて、かっこいい。
あんな顔できたらいいよなあ、あの年齢になったら。
あと、真野響子さん。
大河ドラマの大久保利通の母役とともに、やっぱり素敵。
きりりとして、素敵。

そして、願う。
「親の因果を子が報い」というネガティブなことばかりじゃ、ありませんように。
でも、人を判断する時に、いかに親のことを考えてしまうことか。
よくもわるくも、ね。

ドキュメンタリー報道番組からの着想から、ドラマを簡潔に作り上げる力は侮りがたし。
キャスティングの妙も、また。
さすがNHK。
遅ればせながら、見てきました。

続編、ということで前作との繋がりが非常に強い。
より切なくより重みを感じた。
それがいいか悪いか・・・、というとよくわかりません。
東京タワーが建てられて最後に完成した姿が見える、という前作のあのモチーフは超えられないとは思うけれど。

夢のような、過去の物語。
あの時代、を映画のひとたちは生きていて、本当にそれは良く出来ている。
ウチの母があんなに懐かしがったんだから、よく出来てるんだと思うし、アルバムの中で見る父母の姿を見た気がしたし、昔親戚の家で見せてもらった映写機のなかの姿そのものな気がしたから。
だけど、きっと大変だったり残酷だったりひどいことも、あった時代なんだと思う。
あの時代が、今よりもずっといい時代だ、と思うのはちがう気がするから。

今年、私は祖母と伯母を亡くした。
見ながら、その祖母と伯母も思い出していた。
あの時代よりももっと先に私は生まれているけれど、小さな頃に遊びに行った親戚の家、建て直す前の私の家、お店や道や駅や道路の雰囲気。
あの頃まで、あの風景は同じ線の上にあったような気がする。
きっと、私の上の年代の方からいわせると、それは感傷的な私の知らないはずの夢のような過去、なのかもしれないが。

父や母や祖母や祖父たちの小さな頃や若い頃があって、今がある。
会えないひとは生きていく限り増えていくけれど、きっとそれも意味があるはず。
そんな風に思った、映画だった。

それにしても、ほんとに夢のような映画だった。

主題歌が前作同様、よかったですね。
歌詞が沁みました。

『僕がここに在る事は あなたの在った証拠で
僕がここに置いた唄は あなたと置いた証拠で
生きる力を借りたから 生きている内に返さなきゃ

作詞:藤原基央 作曲:藤原基央
引用』

なにかを残すことは難しくても、感じのいい大人になりたいな、と思う。
正しくなくても強くなくても、いつか誰かの力になれること。
そんなことを、最近考える。
「HERO」を見てきました。

興奮してます。

ビンゴッ!!

めちゃめちゃハマりました。
面白かったーーーー!!

久利生、おかえり!

って感じ。

いや、ほんまに面白かった。

笑って泣いて、また笑いました。

法廷シーンでボロ泣き。
恥ずかしいひとですね、私もたいがい。(笑)

思ったとおりのヤツだよ、久利生。

木村さんであることをこんなに忘れたのはハウル以来かしら。

また、いろいろと感想を書きたいと思いますが、今日はとりあえず。

そして。

イ・ビョンホン、あれだけかい!
まあ、サービスショットなんだろうなあ、あそこらへん・・・。
事務官役のひとと双子に見えた。
しかも、事務官のひとは染さんに見えた。
そして、韓国の検察局に「あるよ」のマスターが居たように見えた。
きっと、気のせいでせう・・・・。

そして、増刊号に出ていたキングコングの新人マネージャー・織田くんと、城西支部の受付の警備にーちゃんがソックリに見えて仕方なくて、笑えて仕方なかったっす・・・・。
そして、チラッと映った宮根アナが妙に男前だった。

いやいや、そんな感想じゃないだろ、って。

久利生が、新聞数行にしかならない遺族のことを語る、あの声の説得力。
松本幸四郎さんが言うように、あれはカメラを意識していない声だと思った。
それでいて、なんてフォトジニックなひとなんだろうか、と。
それも思った。
それは木村拓哉のオーラであり、久利生のオーラ。

松本幸四郎さん扮する弁護士もまた、いいよね。
胸がすく。
弁護士として、どのような弁護が本当に被疑者のためになるのか。建前と本音をかっこよく判断してみせるとこがニクイよねえ。

「新聞数行にしかならない」
・・・・それでも、きっとね。
消防署や病院を訪ねて、婚約者のインタビューをして、被害者の足取りをひとつひとつ追って、そんな取材をしながら泣くような思いで、その数行に魂を込めたかもしれないよね、新聞記者さんも。
そして、被害者を懸命に助けようとしたひとびとも。
そんなひとたちの思いがあのシーンに込められている。

すべての人を事件の当事者として巻き込み、それぞれの尊厳を認める。
こう書くと、オオゲサなんだけども。
今後、現実社会でも市民が裁判の審判に関わることによって、ひとりひとりが責任と重荷を負うようになる。
それが叶えばいいな、とも思う。

久利生公平は、真実をあきらめない。
思ったとおりのヤツ。
いいなあ、ほんとにいいなあ。

書きたいなあ。

そして、周防監督の「それでもボクはやっていない」を見たい、と改めて思った。
この映画のヤメ検弁護士・蒲生(松本幸四郎)の絶望した検察が、そこでは見えるのかもしれない。
衛星放送で「ジョニーは戦場へ行った」を観た。
観るまでのイメージは、社会派、反戦、赤狩り・・・・。
けれど、観てみてまったくその認識は思い込みだった、と知った。
確かに社会派であり、反戦映画だろう。
最後に流れるフレーズは強烈だ。
「1914年以後・・・・」という、戦死者の数、祖国への殉死の甘美さへの皮肉。

「祖国に命を捧げることは美しく輝かしい」という赤い字のテロップ。

映画の内容・・・。
昨日に放送されたのと同じく、この映画もカラーとモノクロの映像のコントラストがはっきりしている。
戦争で顔を失い、身体の機能を失った青年の現実=今はモノクロで、思い出や空想はカラーなのだ。

延髄とわずかな動き、耳、皮膚感覚だけの外界との接点。
それでも、彼はひとの動きやひとの空気をとらえることができるのだ。

誰もが身体の機能と同じく意識や脳の機能が失われている、と思っていた青年の内面や脳内は残酷なまでに聡明で鮮明だ。
人間の世界に戻りたい、と願う彼にただひとり、心から寄り添っていた看護師の行い。
それは、「白い影」の志村倫子のようだった。
いや、原作の「無影燈」の倫子、の行い。
生と性は切り離せない。
それがまた、なんともいえずに胸が詰まる。

彼は思いつく。
自分の言葉を伝える方法。

モールス信号。

懸命に動く頭を動かし首を振り、彼は言葉を紡ぐ。

SOS、SOS、SOS・・・・

単なる反射の動きでない、痙攣でない、と気づいた看護師は、軍医、上官を連れてくる。
モールス信号を理解する男は、ジョニーの言葉に苦悶の表情を浮かべる。

「・・・彼は自分を外に出してくれ、カーニバルの見世物に出して見せてくれ、と言っている。
ひとが生み出した僕を見せてくれ、と言っている。
そう出来ないのなら、殺してくれ、殺してくれ、殺してくれ・・・。」

そして、看護師は彼の願いを叶えるため、彼の肺に空気を送るチューブを閉ざす。

感謝の思いでいっぱいの、ジョニー。

それなのに、看護師の行為が見つかってしまう。
死ぬことが出来ないジョニーと、彼が社会に知られると困る軍部。

ジョニーは真っ暗な世界に見捨てられる。

そして、真っ暗な闇の中でジョニーはモールスを打ち続ける。

SOS、SOS・・・・・

これは反戦映画なんだろうか?
私は「ロレンツォのオイル」という映画を思い出した。
副腎白質ジストロフィー(ALD)という遺伝性の難病。
あらゆる身体の機能が失われ、非常なる症状と苦しみから本人も家族も悲惨な状態に陥ることが多い。
映画を観ていても、その描写が続くと、観ていて辛かった。
だが、主人公の夫婦は、特に母親は狂的なまでの熱意と執念であきらめることをせずに、とうとう治療薬を見つける。
その子供のロレンツォもまた、失われているのではないか、と思われていた脳の機能は損なわれずに残っていた。
それがわかった時の、鳥肌がたつ感じ。
あれを思い出したのだ、今夜。

ロレンツォは母のおかげで人間の世界に戻ることができた。

ジョニーは真っ暗な世界に見捨てられる。

戦争で不治の怪我を負うのは不幸だろう。
けれど、残された魂や機能を閉じ込められたまま生き続けなければいけないこの、残酷さ。

罪を償って牢獄に入ったとしても、彼以上の縛りはない。

世界中の病や怪我やさまざまな事情で、見捨てられ、かえりみられないひとのことを考えた。

きっと、ジョニーは戦場でないところにも、生まれ続けている。
今日は衛星放送で、寅さんの最終作を放映した。
本当は私は(私事で)それどころじゃなかったんだけど、後半を見た。

ラストシーンは神戸長田区だった。
この映画のファーストシーンも、神戸長田区だ。

号泣してしまった。

あのお正月の風景は、変わってしまったのだろうか。
あのころの日本はなくなってしまったのだろうか。

父が亡くなって、明日で8年になる。
父と母は、毎年お正月3、4日くらいになると、京都河原町の映画館に寅さんを見に行った。
もう、なくなってしまった映画館・・・あ、ちがうな。でかい綺麗な映画館に変わったんだ。
(なくなったのは、東宝系。)

昔、寅さんを上映していた映画館は、輝いていた。
みんな大笑いして、泣いていた。
混んでいた時は、新聞紙を通路の階段に敷いて座っていたっけ。

今日の放送。
放映が終わって、番組の中で渡辺俊雄さんと、小野文惠アナウンサーと、山田監督との対談がはじまった。
読まれていた視聴者からの投書のなかに、ちょうどさっきの私のような話が出ていた。
労務者風のひとたちが、三番館四番館で何本立てにもなっていた寅さん祭りで、笑って泣いていた、と。
その時から「それから、私には寅さんは喜劇ではなくなった」と。

けれど、山田さんは「ありがたいことだけれども」、寅さんは喜劇だ、と言う。
世界中で重い映画はあるけれど、今は腹の底から笑う喜劇がない、という。
「この世に笑いを」。

またそれさえもまた、私は中居さんを頭に浮かべた。
中居さんが笑いを求めるのは、この山田さんの思いと同じではないか。
今の世だから、笑いを。
笑いって・・・喜劇って人間を見せないとダメなのだ。
その笑いへの模索はこれからだ。

天才、完璧な役者と言われた渥美清さん。
映画で初主演するのは、34歳。
寅さん役者として重宝されるあまりに、私生活をベールに包み孤独に生きた役者。
寅さんを演じてからもいくつもあった、と言われる企画が周りから否定され続けていた、という。
本当はとても不遇だった天才。

寅さんとリリイ。
決着がついているかと思いきや、まだまだ不安定な歳を重ねたふたり。
もう若くないふたり。
このふたりについては、前にも書いた。
http://diarynote.jp/d/63213/20060412.html
「男が女を送るって言う時は、女の家の玄関先まで送るのを言うんだよ」
リリイにみっともない、と憎まれ口を言われながらも、そんな女心をくすぐる男気。
こんな男も少なくなった。

寅さんは、リリイを置いて、旅に出る。

寅さんは、まだ日本を歩いているだろうか。

今の日本って、どうなんだろう、ねえ。

今の時期、よく話す。
「おとうさんが今生きてたら、どう言ってるだろうね」

生きていたら、29日で68歳。(命日28日、誕生日29日なんですよ・・・ぎりぎり現役)
まだ、そんななのに。
もう、そんななのになあ。

切なくって、涙が出る。

失われる場所、忘れられない場所。
ドラマ「白い影」(2001)のロケ地、オセアノートで今夕、集まりがあったのですよね。
お店が改装してしまう、ということで、有志の方が企画された。
オセアノートの思い出は素晴らしい記憶になりそうですか?

記憶に残る、心に残る、そんな映像作品が残せること。
役者冥利に尽きるよね、中居さん。
えー、ネタバレでがっつり語りたいと思います。

はじめに断っておきますと(笑)、原作読まず、映画も1度しか見ておりません・・・。
あとで修正しにくるかもしれません、あしからず。

さて。

「武士の一分」。

まずは、誤解を怖れずに書きますと
「木村拓哉は木村拓哉」なのでした。

愛されましたね、木村さんは銀幕に。
「山田組」に。
ため息をつきつつ思いました。
そして、いかな場にあろうとも
「木村拓哉」。
銀幕のスタアたる必要条件、であります。

作品は山田洋次三部作のなかでも、実に真っ直ぐで情熱的でシンプル。
これは難しいと、思います。
実に難しい。
この作品を成り立たせるのに、いかに新之丞の存在が難しいか。
・・・やっぱり、「木村拓哉」しかおりません。

そして、木村さんの演技は実に木村さん、なのでした。
私は「見たことのない」木村さんに会うために見に行くのかな、という感じだったのですが。
昨夜の慎吾ちゃんの言っていたように「見たことのある木村くんがちらっちらっと出てくるのが嬉しい」。
まさにそんな感じでした。

妻や中間に軽口を言う時に、先に唇をゆがませて笑ってしまう顔。
愚直なまでに真っ直ぐな心情そのままのキラキラした瞳。
権威や形式にちょっととぼけて見せる表情。
恥ずかしがって目を逸らし気味にして話す感じ。
「めんどくせぇ」と言い放つオチャメさ。
子供に見せる笑顔。

これはファンゆえかな〜、と思って隣を窺うと、初老の男性は目尻の皺を寄せて微笑んで観ていられた。
新之丞の箸の上げ下げに、「あっ」と小さく手を震わせてハラハラ見ていられた年配の女性がいられた。
そんな演技が、実に実にナチュラル、なのだ。
メイクと一緒で、この自然さのいかに難しいことか。

背筋の真っ直ぐ伸びた姿勢、生まれながらの武家に見える所作が
きっちり演じられたうえでのこと。
それを忘れるくらいの自然さ。
すごいことだ、と思う。
(前半、あれれ・・・と思ったところがあったけど、それでもたいしたものです。と、甘いファン)

真田さん、永瀬さんと単純に比較すると、「山田監督の」とつく映画の主演俳優、武士を演じた、といった感じだったおふたりに対して、今回の木村さんはそこを超えてたような気がする。
・・・ああ、修正しますと、真田さんの場合は、作品そのものになってらっしゃったような気がする。
実にチャーミングな彼と山田組とのコラボレーション、といった風に見える、木村さんの輝きたるや、やっぱりすごいものがある。

それは、綿密な演出と作画の上で成り立っている。

こまごまと重ねられるシーンとシンプルな流れ。
新之丞を中心としての人物描写。
山田監督は、こういうのが実に巧い。
夫婦の描写については、あちこちに感想が述べられているし、つけ加えるところがないくらいだけれども、
新之丞と上役や同僚のシーンなど、実に巧い。
お殿様のお目どおりのくだりなんて最高で、あれは実にラストのラストの伏線、になってると思う。

年長同僚?と木村さんのあの表情と間。
お殿さまのすっとぼけぶり(笑)
一緒に観た母が
「あの時ってすでに新之丞の処遇って決まってたんだよね・・・・」
「うん(笑)。」

後半の、光を失くしてからの新之丞の激しさと若さ。
あれも山田演出に裏打ちされた演技なのだけど、ひとには出せない色と味がある。
あの涙の大きさ、よ。

緒形拳さんとのシーンはとても迫力があった。
武道者の立ち合い、といった感があり、時代劇の殺陣とはちがう新鮮さを感じた。
のちの果し合いよりも、ずっと迫力ある道場のシーン。
三津五郎さんの立ち居振る舞いは、やはりお芝居、歌舞伎の感じがした。
身分ある武士の振る舞いとしてピッタリ、だったのだろうけれど、あの太刀捌きが実は有名道場ではあっても実用向きではない、ということの表れなのかもしれない、と思った。
相手を盲人、と思った緩みでもあるのだけれど。

「武士の一分」。
それは新之丞の一分、を描いた作品でもあり。
非道を働いた島田の一分、でもあり。
実は一枚も二枚も上なんじゃないか、という(笑)お上の一分、でもあり。
「武士の妻の一分」
「中間の一分」
を描いた作品でもあるのかな、と。

「武士の一分の木村拓哉」というだけでなく
「木村拓哉の武士の一分」な、そんな作品でもある、と思う。

眼千両、涙の美しい男優。
そんな魅力のあるスタアの銀幕。

「武士の一分」という映画。

チャーミング、な映画です。
実に私自身、女性として見てしまった、映画です。

MAYUKOさん。
ほんとに
愛おしい、映画です。
「容疑者室井慎次」を見た。

・・・地味だ、地味すぎる・・・・。

そもそもが、主人公が室井さんだもんな。

にしてもー。

現実があんなこんな、なので、もうなにも意外性がないってか。
うーん、キャスティングも脚本も新鮮味がありませんなー。(苦笑)
ヘンな「黒幕」のおじいちゃんが出てきて、室井さんが観覧車で密会してるとこなんて、もうガックリ、よ・・・。
オチもオチ・・・・。
「潜水艦」事件ってのが見たいわ、せっかくなら。

「踊」ってないもん、「踊る」が。
なんか、淋しくなったなー。
「踊る」ファンだった私には。
ゲストの女優陣には魅力はないし、いいキャラの方はいないし。
哀川さん出す意味が、どこにある。(←毒吐き)

それでも、室井さんには結構、うふふ、うふふ、と言いながら見ていた。

本編を見ていた頃から、室井&青島&すみれの三角関係、とか妄想して楽しんでいた。
(って、誰がモテてるの?←べシッ)
室井さん、また惚れさせてたね。
なんで、新宿署があんな奇天烈なのか、あそこの刑事達がみんな
室井「あんちゃん」シンパになったのかよくわからないけど。(笑)
そして新城って、いつのまに、あんなにイイ人になったんだろう。
でもって、ヤツも七光り組だということが発覚!
「死ぬほど勉強してよかった」って言ってたのにー!
成り上がろうという上昇志向の男だと思っていたのにー!
東大入るのは前提のエリートにしても、それでも七光りなんだねッ!
そして、お台場連続殺人事件でヒールを演じていた真矢さんが。
・・・もとい沖田管理官。
査問会で守ってもらったからって、そんなに惚れてて、いいんですかーッ!
私にはもう、「恋する女」にしか見えなかったっす・・・。
でも、これから期待する一番のキャラは彼女、なのです。
頑張れ、沖田!
(今回の彼女には前回よりも余裕が見えた。彼女のきっと『何度目かの』挫折
(今までに挫折を知らない女性ではないと思う)
そして今までと『ちがった』挫折、室井さんとの出会いは彼女の視野を広げたことだろう。)

室井さんの大学時代の秘話、だとか恋人の話なんて出てきちゃって、
きっとあの若い弁護士の女の子も、室井さんを好きになったんだろうな・・・。

モテすぎや、室井さん。

けれど、室井さんは青島一筋。(おいおい)
今度は広島、だって。

ここから、妄想話。

そんなモテ男でフェニックス室井さんには、そっくりな従弟がいた。
もうちょっとコンパクトだけど、目が大きくてクリクリしてるとこが、
「慎ちゃんより愛嬌あるよ!」と親戚内でも評判の従弟。
かれは、「〜だべさ」の慎ちゃんと張って「〜べ」のヒロちゃん、である。

ヒロちゃんは、室井さんとすれちがいで、警視庁にやってくる。(あれ?なんか、出向だの警視庁と警察庁どっちの人間だとか、で揉めてたけど、よくわかんない)

「・・・・む、室井さん!!」
「いや、中井です」
「え、でも、その格好はどう見ても・・・」
「中井だ」
だだんだ、んだんだだーん、だだんだ、んだんだだーん・・・(室井のテーマ)

て、なんのオチにもなってへんな。

中居さん、警察ものやんない?
そういや、SMAPって、刑事ものやったことないよねえ。
犯人はあるけど。
(コントでも可)←うそ。(笑)
もうね、レギュラーじゃなくって、NHKとかでやんない?
・・・ムリだろうな。

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