1月2日。
諫早駅からは島鉄バス。
乗り合いバスで、75分とのことだったが、途中で渋滞をして90分あまり、で島原雲仙温泉に着いた。
せっかく温泉に行くのだから早めに・・・と思ったけれど、宿の部屋に落ち着いたら16時を回っていた。
温泉に来たからにはやはり温泉浴。
最近流行の温泉宿の湯回りチケットもいただいたんだけど、ゆっくりしたいのが目的なので、眺めのいい眺望風呂に浸かって夕焼けを楽しんでいました。
夕食は部屋食。
こんなに贅沢しててもいいのかなあ、という感じ。
泊まったホテルは、チェックイン時の母を気遣ってか、案内された部屋は予約していた和室ではなく和洋室にグレードアップされていた。
だからベッドと椅子があったので、助かりました。
それなのに、「部屋をグレードアップしましたよ」とも言わず、部屋にあったよりも更に高さの高い椅子を後から運んでもいただいた。(低い椅子は足が痛む時があるのですが、若い仲居さんよくわかってたみたいです。)
夕食の前、夜遅く、朝食前、と3度お湯に入りました。
満喫・・・・。
翌日は、近所の温泉神社と地獄めぐり。
地獄めぐり、ちょっとしたハイキングコースでもあった。
母を売店に置いて私ひとりが歩いたのだけど、軽く1時間弱だったかな。
硫黄の匂いが立ちこめて、時々ぐつぐつとなっているところもある。
諫早駅からは島鉄バス。
乗り合いバスで、75分とのことだったが、途中で渋滞をして90分あまり、で島原雲仙温泉に着いた。
せっかく温泉に行くのだから早めに・・・と思ったけれど、宿の部屋に落ち着いたら16時を回っていた。
温泉に来たからにはやはり温泉浴。
最近流行の温泉宿の湯回りチケットもいただいたんだけど、ゆっくりしたいのが目的なので、眺めのいい眺望風呂に浸かって夕焼けを楽しんでいました。
夕食は部屋食。
こんなに贅沢しててもいいのかなあ、という感じ。
泊まったホテルは、チェックイン時の母を気遣ってか、案内された部屋は予約していた和室ではなく和洋室にグレードアップされていた。
だからベッドと椅子があったので、助かりました。
それなのに、「部屋をグレードアップしましたよ」とも言わず、部屋にあったよりも更に高さの高い椅子を後から運んでもいただいた。(低い椅子は足が痛む時があるのですが、若い仲居さんよくわかってたみたいです。)
夕食の前、夜遅く、朝食前、と3度お湯に入りました。
満喫・・・・。
翌日は、近所の温泉神社と地獄めぐり。
地獄めぐり、ちょっとしたハイキングコースでもあった。
母を売店に置いて私ひとりが歩いたのだけど、軽く1時間弱だったかな。
硫黄の匂いが立ちこめて、時々ぐつぐつとなっているところもある。
お昼に泊まっていたホテルで一服してから、予約したタクシーと待ち合わせ、島原城へ。
途中、平成新山のまん前を通った。
以前の噴火口と土石流が流れたあと。
道と山の間には棚田も畑も民家もたくさんあるし、緑ゆたか。
そして、道から反対には海。
その距離感の近さに驚きの声をあげてしまった。
山と海の距離は6キロくらいしかないという。
平成新山が迫ってくる感じがした。
そして、島原港の前も通った。
そこから熊本へのフェリーが出航するところだった。
タクシーの運転手さんの話によると、フェリーが出ると鴎がついてきて、餌のえびせんをねだってずっと周りを飛んでいるのだという。
島原城。
一度、行ってみたいと思っていた。
この島原城は復元されたものだけれども、天守閣にあがってみた。
母は途中までだったけれど、私は上まで。
途中は資料館になっていて、それらを見ていたら時間が足りなくなりそうだった。
島原の乱は幕府によるキリシタン弾圧、と教科書に載っていたわけだけれども、もちろん、そういう側面があるのだけれども。
名城といわれた島原城を建てたことによる経済的人的負担の過酷さに苦しんだ庶民の戦いだった。
しかも、その蜂起さえも反乱軍(浪人や土着領主が指導的役割を担った)に強制的に参加させられたひとたちも多かったという。
近頃、それを題材にした本も出版されていて、この乱に対して興味を持っていたのだけれども、資料館にもあの天草四郎時貞のことを「指導者に仕立て上げられ」(はっきりとは覚えてないのでいいかげんかもしれません)と説明書きにあって・・・なんとも、心に残ったことだった。
キリシタンへの扱いについても、地方によっては差があったようで穏便にすませて信者から犠牲者を生まなかった地域もあったということだった。(それでも隠れて信仰を続けていたひとびともいた)
ちなみに島原最後の藩主は、徳川慶喜の実弟。
島原城から、諫早へ。
そして、諫早から博多、京都に帰り着いたのは20時過ぎ。
乗り継ぎがよすぎて(笑)、3日は昼、夜はあまりまともに食べられなかったけれども、ご馳走の食べすぎだったのでちょうどよかった。
でもねえ、太りました。
えらいこっちゃ、です。
11月からこっち、5キロ近く太りました。
マックス、ですよ。
ここ数年の。
******************************
金スマ。
森進一さんの歌は好き。
特に好きなのは「襟裳岬」と「冬のリヴィエラ」
声も、ね。
なんとなく、中居さんがものまねでやりたくなったのわかった気がするなあ。
紅白の異様なくらいの迫力を見たときもそうでしたけど、ね。
途中、平成新山のまん前を通った。
以前の噴火口と土石流が流れたあと。
道と山の間には棚田も畑も民家もたくさんあるし、緑ゆたか。
そして、道から反対には海。
その距離感の近さに驚きの声をあげてしまった。
山と海の距離は6キロくらいしかないという。
平成新山が迫ってくる感じがした。
そして、島原港の前も通った。
そこから熊本へのフェリーが出航するところだった。
タクシーの運転手さんの話によると、フェリーが出ると鴎がついてきて、餌のえびせんをねだってずっと周りを飛んでいるのだという。
島原城。
一度、行ってみたいと思っていた。
この島原城は復元されたものだけれども、天守閣にあがってみた。
母は途中までだったけれど、私は上まで。
途中は資料館になっていて、それらを見ていたら時間が足りなくなりそうだった。
島原の乱は幕府によるキリシタン弾圧、と教科書に載っていたわけだけれども、もちろん、そういう側面があるのだけれども。
名城といわれた島原城を建てたことによる経済的人的負担の過酷さに苦しんだ庶民の戦いだった。
しかも、その蜂起さえも反乱軍(浪人や土着領主が指導的役割を担った)に強制的に参加させられたひとたちも多かったという。
近頃、それを題材にした本も出版されていて、この乱に対して興味を持っていたのだけれども、資料館にもあの天草四郎時貞のことを「指導者に仕立て上げられ」(はっきりとは覚えてないのでいいかげんかもしれません)と説明書きにあって・・・なんとも、心に残ったことだった。
キリシタンへの扱いについても、地方によっては差があったようで穏便にすませて信者から犠牲者を生まなかった地域もあったということだった。(それでも隠れて信仰を続けていたひとびともいた)
ちなみに島原最後の藩主は、徳川慶喜の実弟。
島原城から、諫早へ。
そして、諫早から博多、京都に帰り着いたのは20時過ぎ。
乗り継ぎがよすぎて(笑)、3日は昼、夜はあまりまともに食べられなかったけれども、ご馳走の食べすぎだったのでちょうどよかった。
でもねえ、太りました。
えらいこっちゃ、です。
11月からこっち、5キロ近く太りました。
マックス、ですよ。
ここ数年の。
******************************
金スマ。
森進一さんの歌は好き。
特に好きなのは「襟裳岬」と「冬のリヴィエラ」
声も、ね。
なんとなく、中居さんがものまねでやりたくなったのわかった気がするなあ。
紅白の異様なくらいの迫力を見たときもそうでしたけど、ね。