ガッラ・プラチーディアの霊廟
サン・ヴィターレ教会の敷地内にある十字型の建物。
5世紀半ばのホノリウス帝の妹ガッラ・プラチーディアの霊廟。
青と緑の実に美しいモザイクは、小さな灯と入り口から射し込む外光の中、
目を慣らしてから見つめる。

細かい石と宝石(ラピズラリの青など)をひとつひとつのガラスと合わせて組み込ませる。
その色彩感覚と、豊かな自然と信仰を表す力。
信仰を表すのに文字がなくとも、伝わるように。
この国の教会の中には、ステンドグラスや彫刻がそうであるように、そうしたも
のが溢れている。

優しく静謐で穏やかなここは、女性が眠る霊廟だと思うと、とても心休まるよう
な気がする。すこしだけ、お裾分けさせてください。お邪魔します。
天井の夜空や宇宙を思わせるモザイクを見ていると、暖かさを感じた。

この間のテオドラ妃の絵といい、非常に暗い画像ばかりですみません。(フラッ
シュNGです)
私が見ていたのと同じものを、お伝えできれば嬉しいのですが・・・。
サン・ヴィターレ聖堂のつづき。
聖杯の絵のようです。
上に、聖人の名前が入っていて解説もしていただいたのですが・・・。
んー、無念。覚えてない。(爆)
サン・ヴィターレ聖堂の景色
サン・ヴィターレ聖堂の景色。
「外観だけ見ていると、『普通の教会みたいじゃない?』という感じでしょ?でも、中のモザイクは繊細で素晴らしいですよ」という添乗員さんの説明どおりだったが、その外観が気に入った。
穏やかで静かなモザイクの街、ラヴェンナ。
お天気が恵まれていたので、外の写真はスッキリと映った。
ちっちゃいデジカメでその性能に助けられていっぱい、撮れたのが、イタリアのよい思い出のひとつ。
でも、その土地の空気や風もよく覚えている。
青い空、光と影、アスファルトでない石畳の踏み心地。

もう2ヶ月以上前なんだなあ〜。(撮影日・10/12)
あれから、そんなに時間が経ってるのも信じられないし、それだけしか時間が経ってないんだ〜、とも不思議に思う。
旅行に行けたことは今年の最大級の、いやここ数年分の大きな出来事になった。
この頃、時間の経過を感じる体内時計みたいなものがおかしい。
そのせいか、今は気分が短時間のうちにかなりアップダウンしてしまう。

明日で、この日記を書き始めて1年が経つ。

ところで、慎吾ちゃんは今年よーろっぱに何を観に行ったのだろう。世界遺産づく気持ちはよくわかる。
「テオドラ妃と女官たち」
イタリア・ラベンナにあるサン・ヴィターレ聖堂のビザンチン風モザイク画です。
数日前にアップした「ユスティニアヌス帝と重臣たち」のユスティニアヌス帝のお妃にして、共同統治者。
この絵にしても、「ユスティニアヌス帝と重臣たち」の真向かいにありますが、堂々たるもの。

このテオドラ妃ですが、私は猛女、と書いたけれど、正しくは「女傑」くらいでいいのかな?と訂正。
でしゃばりで勝気だったそうだけれど、悪女、猛女、というほどでもないのかなー。

しかし、彼女はなんと生まれはサーカス団の団長の娘。
舞台ではコメディ女優、それからこの時代の女優ですから、エロティックな見世物にも出ていたといわれ、その大胆な振る舞いや奔放な身銭稼ぎについては、なにかと諸説があるそうですが・・・。
未婚の母にもなっていた、とも言われています。
それから、高級官僚の奥さんに納まり、リビアに共に赴任・・・しかし、早々に破局となって、東方を廻った後に、コンスタンティノープルに帰ってきて、運命の出会い。

皇帝となるユスティニアヌスと知り合い、恋に落ちるのですが、ユスティニアヌス、余程テオドラに惚れこんでしまったのか、元老議員が一介の怪しげな女優との結婚するのを禁じる法律を変えてしまいます。
そうして、ユスティニアヌスとテオドラは結ばれることに。

ユスティニアヌスは皇帝の甥ではあったけれど農家出身ということもあるのか、殊のほか勤勉で質素堅実。
テオドラは、派手で優雅で豪華な生活を好んだといわれていますが、まだ20代前半、小柄で色白、繊細で瞳の輝く溌剌とした美女だったそうなので、無理はないのかも。

しかし、このテオドラ、地位にあかせて贅沢三昧ばかりの生活を送っていただけではなかったようで。
外交の才があったといわれ、また、ローマ教皇の罷免、追放までしていたようで、それは「寵妃の口出し」というよりは、ユスティニアヌス帝が共同統治者、パートナーとして尊重していた、と評価されているようです。
若い頃の経験がそうさせるのか、女性の保護、育成にも力を入れていたようで、女性の再婚を認める法律を作ったり、娼婦の更生施設や修道院を作ったり、病院を私費で作ったといわれています。

彼女の最大のハイライトとして有名なのが、ニケの反乱。
ユスティニアヌスの領土回復のための再征服に備えた増税、市民サービスとしての「パンとサーカス」の縮小に反発した市民の反乱に、皇帝と対立する元老議員が他の皇帝候補を担ぎ上げて便乗、その勢いに弱気になったユスティニアヌス帝が逃亡を決意、船で逃げ出そうとしたときのこと。

「たとえそれによって命ながらえるとしても、今は逃げる時ではありません。この世に生まれた者は死ぬのが定めとはいえ、皇帝であった者が亡命者となるのは耐えられますまい。私はこの紫の衣を脱ぎたくはありません。出会う人々が私に向かって『皇后陛下』と呼びかけないような日々を送るのはごめんです。生き延びたいとお思いでしたら、陛下、難しいことではありません。お金もたっぷりあります。目の前は海、船も用意されています。けれどもお考えください。そこまでして生きながらえたところで、果たして死ぬより良かったといえるようなものでしょうか。私はいにしえの言葉が正しいと思います。『帝衣は最高の死装束である』と。」(プロコピオス『戦史』第1巻24章・「共和制ローマ」管理人DSSSMさま訳引用)

なっがい、引用でした・・・。(ゼイゼイ)
とまあ、言ったとか言わないとか。(笑)
とにもかくにも、踏みとどまれ!という彼女の一喝が効いて(笑)でまあ、「大帝」となりえることができた、ということで。

ここまで書いててなんですが、私は彼女のバイタリティは好きで、調べてはみたんですが、この結果・・・・・反乱軍は根絶やしになってんだから、一方で見たら・・・、ってことですね。
ここでわれわれの常識を持ち出すことはナンセンスなんでしょうが、反乱した市民を虐殺することと女性の地位向上に努める面を持ち合わせていることは矛盾はしてこないんでしょうねえ。

そして、彼女は恐らく、40代で癌で亡くなり、10いくつも年上の皇帝が遺されます。
ふたりの間には子供がいず、皇帝が83歳で亡くなった時にも、その子がいなかった、とされます。

現地ガイドさんの解説されていたことによると、テオドラ妃と結婚したことによって、ユスティニアヌス帝の運が開けた、上がった、というのが定説なようで・・・・。下世話な言い方なんですが「あげ○ん」ってこと?とつい口について出そうな自分がいて・・・・言いませんでした。というのが、大きな思い出です。(←恥ずかしいやつ)
「ユスティニアヌス帝とその重臣」
こちらは、日当たりの加減で比較的はっきり写っています。
この絵と「テオドラ妃」は、ビザンチン様式の傑作といわれています。

西ローマ帝国が滅亡した(476年)後、東ローマ帝国はコンスタンティノープルを首都として存続。
東ローマ帝国は、ビザンツ帝国として、皇帝は唯一のローマ皇帝として、権威は認められていたものの、周囲をゲルマン民族の大移動で移住してきたゲルマン諸族の諸王、ほかにフン族・スラヴ族・ブルガール人などに脅かされ、また、東方のペルシアからの侵入も防がなければならなかった。

といった事情のもと、マケドニアの農家に生まれたというユスティニアヌス帝が叔父さんの養子になり、即位。
気さくで質素で働き者、という性格と伝えられたこの皇帝ですが、国内の反乱(ニケの反乱)を押さえ、ペルシアを撃退、「永久平和条約」を結んだり、西ローマ帝国の領土をほぼ再征服をしたり、現在のヨーロッパの法律にも影響を与えているといわれる「ローマ法大全」を完成させたり。
といった、『大帝』でもあります。
83歳と長生き。

秀麗なモザイク

2005年12月12日 旅。
秀麗なモザイク
床も、こんな風に秀麗。
ひとつひとつ、大理石のピースが埋め込まれていて、このあたりは、当時そのまんまみたいです。(おそらく)
サン・ヴィターレ聖堂
ラベンナのサン・ヴィターレ聖堂。
今度のイタリア旅行では、楽しみにしていたスポットのひとつ。
ビザンツ帝国の皇帝・ユスティニアヌスとその妃・猛女(?)テオドラの話が好きだから。(笑)

それにしても、この中のモザイクは素晴らしいです。
一切、彩色をしているわけではなく、あちこちからそれぞれの色の大理石を採掘して取り寄せ、さらにそれらを切り取り、ひとつひとつ埋め込んで作られたもの。
一部は、後世に足されたものはあるものの、当時そのままの石が残っている。
のためか、撮影はOKだけどフラッシュNGのため、どこまで見えるかな?プリントアウトしてもらったら、画像が鮮やかになったから嬉しかったので、調子わるければ、それを再撮影してアップの予定。(笑)

ラベンナの街

2005年12月10日 旅。
ラベンナの街
ラベンナは、徒歩で大体観光名所を廻れるビザンチン文化を残す街。
5世紀に、ローマ帝国が東西に分裂した時に北方の民族・ゴート族の侵入を防ぎ、西ローマ帝国の首都になった。
しかし、476年に東ゴート族の支配を受けその後、540年にビザンチン帝国の下に治められることになった。
首都コンスタンティノープルから持ち込まれたビザンチン文化は、ここからイタリア全土に伝わった、といわれる。

・・・ということなんですが、モザイク工房のお店がいくつもあり、お買い物が楽しかった。
私は、ギター?のような楽器のブローチと、小さな十字架のペンダントトップを買った。
ポークソテートマトソース
この日は、トマトソースだらけだったな。(笑)
さよなら、ヴェネツィア!
ヴェネツィアは、干潟だった土地に北方の住民が異民族の侵略を逃れて、移住したといわれる土地。
なので、干潟に土を盛って、杭を打ち込んで街を作り建物を建てている。
近年、このラグーナ(潟)が年に数センチずつ沈み、また潮の水位が増すことが多くなっていて、文化財は勿論のこと市街地の開発と保存など、難しい岐路にきているようです。しかし、運河の水は、以前は下水道がないということで排水がそのままだったそうですが、近年は浄化に努めているということで、随分よくなったらしいですし、これからですね。(でも、やはりニオイが・・・)


実はまだ続く旅日記・・・
すみません、書き方が悪くって・・・。
まだ、続くんですよ、旅日記。(笑)
しつこいけども、年内で終わるといいなあ〜。(おい)
実はまだ行程の半分・・・・。

鐘楼からの画像だけで7枚くらいあげちゃったので、「ラスト」と書いてました。
お言葉下さいました、みなさま、すみません。(ペコリ)

で、しつこいんですが、まだヴェニスなのですが。
2泊3日の滞在を終え、朝にヴェニスを出発しました。
やっぱり、名残惜しかったですね。
よいとこでした、ヴェニス。
画像の左に立ってるのが、この間書いていたサン・マルコ広場の鐘楼です。ここから、眺めていたわけですね。
レストラン「NINO」
中のテーブル席もあるんですが、ちょっとした屋根をつけての屋外の席でした。
面白いんだけど、ハエがいるんだ〜。
鐘楼からの眺め・7
ラストです。
ドゥカーレ宮殿が手前にあり、大運河に面した向き。
泊まったホテルも、小さく・・・・写ってるかな。(笑)

また、行ってみたいな、ヴェネツィア。
狭いようで、まだまだ行ってない所がある。
鐘楼からの眺め・6
こちらも、鐘楼から見下ろした図。
左手に見えるのは、サン・マルコ寺院のドゥオモ。
鐘楼からの眺め・5
こちらが西側だったのかな?
夕方に上がりましたので、夕陽です。

疲れてひと足先にホテルに帰った母は、帰り道すがら、ヴェネツィアングラスの大きなペンダントを買っていた。
・・・てのを、最近知った!
ずるい!自分だけ!(笑)

ささやかなアクセサリーは買って来て、早速着けてはいたのだがな・・・。
鐘楼からの眺め・4
サン・マルコ広場を見下ろしています。
鐘楼からの眺め・3
何度か登場している、サン・ジョルジョ島です。
修道院がある小さな島。
ここにも、水上バスに乗って行って来ましたけども。
鐘楼から眺めるとこんな感じ。(ズームアップはしてます)

今の高層タワーと較べると低いですが、昔からの町並みを保つヴェネツィアでは、こんなに見晴らしがよいのです。
鐘楼からの眺め・2
海外旅行に限らず、旅行で気になるのはトイレ。
案の定、ヴェネツィアでも、トイレ探しになりました。
バール(喫茶店or売店)でお茶でもして借りてください、と言われましたが、お店の人が「あっちにあるよー」と指差してくれたのは、外。
どこだ〜?とわからなかったのだけど、しばらくして気づく。
歩いている石の通路にWCのマークのシールが。
なるほど・・・。看板などはないけど、下に貼ってあるのね、と感心。
広場の奥にあった公衆トイレは、1ユーロと少し高いのだけど、非常に機能的かつ清潔で大きく明るかった。
添乗員さんが止めていたくらいだったから、どんなのかと思っていただけに、驚いた。
新しく整備されたのかしらん。
オススメですよ、ここの公衆トイレ。(笑)
これなら、飲みたくないお茶を飲むより、ずっといい。(広場に面していると高いんだもん)

京都の観光地などでも、公衆トイレが足りなかったり、そのせいでお掃除が行き届かなかったり、ということが多いらしいけど、日本の観光地でもこういうトイレ、やってみたらどうかな。
100円くらい出しても、いいかな、って思う。
まー、日本はそういう習慣がないから、どうかと思うけど、安全で清潔を買うと思えば・・・。
サン・マルコ広場の鐘楼
日記さぼるかも、と書いていましたが、「そういやイタリア・・・」と思い出しました。
まだ、半分だったのです。(もう、いいって?笑)

実際にイタリアに行ってみて、絵とか歴史とか知らなかったことが多く、興味が出てきてアマゾンでいっぱい注文してしまい、今、どーん、と本とDVDが部屋に積んであります。
画集はお高いので、絵本や子供向け入門の本でも、とても印刷が良く価格も努力されているところがある、ということだったので、そういう本を何冊か。
実際、手にとって見て、確かに・・・、と思った。

そんなこんな、なんですが。
ヴェネツィアでの自由行動では、アカデミア美術館を見て、その後に鐘楼に登りました。
そこで出会った関西から来た新婚さんが、私と同じデジカメの機種を持ってて、ダンナさんが遠景を写しつつ距離が近いい人物にピントを合わせるやり方を教えてくれた。

ゴンドラ4

2005年11月22日 旅。
ゴンドラ4
まだ、あります。(笑)
こんなのばっかり、やっていたんで、今何冊あるねん、私の写真・・・・。

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