「そんなこと、言ったことないから!」

と間髪いれずに言った私と
黙る姉。

ぶははははは・・・・


昨日は、祖母の三回忌法要でした。
お寺ではお坊さんたちの見事なお経の唱和に「音痴だったら絶対むりだよね、この宗派」なんて思いました。
足が痺れてピーンチ!!

その後、お墓参りしてから、鴨川べりの料理屋さんで食事会をしました。
そこで、親族でいろいろお喋りをしていた折に、祖母が他所で、私と姉がタイトルの台詞を祖母に言った、と言われたわけなんですね。
初耳だったけど、ほんまにとんでもないおばあちゃんだわー。
口が達者な姉の幼い頃の憎まれ口だとか、日常のあれこれで生意気言ったこともある私。
だけど、そういう発想にはなったことなかったんだけどな。
居る時には居るし、関東の伯父の家に帰る時は帰るおばあちゃんでした。
数ヶ月京都にうちに居るときは、おばあちゃんの親戚や友達が京都に多いから、ひともやってきたし、遊びにも行っていたし。
うちにはおばあちゃんの部屋もちゃんとあったし、箪笥の中には着物も入っていたし、押入れのお布団も季節分、ずっと置いてあった。
とはいえ、娘の嫁ぎ先に居候、ということもあるから、それなりにいろいろ思うことはあったんだろうが。
父は、早くに自分の両親も亡くしていたし、もともと身内や親戚づきあいのことが嫌いじゃないしなんとも思ってなかったので、祖母とも自然な家族だった。
旅行も一緒に行ったし、外出もいつも一緒にいたし、父の甥っ子や姪っ子が遊びに来て、みんな一緒に食事したり泊まったりもしていた。
近所のお祭りには父と祖母とで出かけていて、近所の方には実の親子と思われていた。
でも、なんやかんやとはあるんだけども、まあ、それもひとつ屋根の下の家族、という感じだった。

終戦の年に未亡人になった祖母は、女手ひとつで息子2人と娘1人を育てた。
京の商家の男きょうだいのなかの一人娘であった「お嬢」は、根っからの「お嬢」気質だから、どうしようもないところはあるんだけど(笑)、駄菓子の一文問屋やったり中央市場で働いたり、していたらしい。
その一方で淀の競馬場行ったりしてた、というからとんでもない。(笑)

伯父たちはこのごろ、自分たちの苦労も語る。
大変だったんだな、と思って私は熱心に聞くけれども、妹である母は「また言ってるわ」くらいしか思ってない。(笑)
戦中戦後、みんな大変だったんだな、と思う。
たくさんの房江さんがいる。

祖母の葬儀の時。
本当に、祖母は美しかった。
あれこそが「おくりびと」のおかげだったんだなあ、という話になった。
都合により、亡くなって1週間後に葬儀だったわけだけど、信じられないくらい美しかった。

頬に触ろうとして、「触らないでください」と言われたのはちょっと哀しかったけど、という話だけども。




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