拒む映画

2008年11月22日 映画
「私は貝になりたい」を見に行った。

できるだけ先入観や思い入れを持たずに見よう、と思って行ったけれど、それは正解だったと思う。
それでも、どうしても冷静には見られないと思った。
今まで、中居正広を何年も自分なりに見続けて大好きだったから、それは絶対なんだと思い込んでいたけれど・・・。

ある意味で、裏切られた。


この映画は、多分な涙や多分な感情移入を拒む映画、だと思った。
きっと、中居正広の映画!と思うのも拒もうとしている映画。
(でも、これはファンであるからなのかなあ、とも思った。事実、一緒に行った友達は中居クンの映画だと思って見ていた、と言っていたし、オールスターキャスト過ぎた、と言った。)


とてもテンポが速く、天国から地獄、地獄から天国・・・といった具合にアップダウンが激しい。
そのなかでの豊松・房江ふたりのお互いの存在の有様がとても必然。
恋慕う思いの強さ、子供への情の描き方。
それは十分に感動的で、今も思い出すとジーン、とくる。
表情も背景も申し分もなく美しく輝いている。
哀しいシーンでさえ、も。

けれども、ぐーっと思いと感情が高まるピークの来る前に、すっと次のシークエンスに移る。
唐突でもないし、驚くほどでもないし、集中力が途切れないのに、それはすっと進んでいく。
豊松が逮捕されるまでの流れのあたりは特に、理路整然としているのか時系列が前後しているのかさえ、今もよくわからないけれども、驚くほどに脳の中で、それからサーッと頭と胸に理屈でなく刷り込まれる。


・・・だめだな、なんかまだうまく書けない。


友人4人と見終わって、あれこれと話したこともあったけれど、それまたいずれ。


清水豊松という人物は、ステレオタイプな人間ではない。
「清水豊松」というひと、ほかでもない、唯一無二なひとである、と感じる。
ひととは、その人以外ではありえない。
だから、清水豊松のことばは、清水豊松そのひとそのもの、なのだと思った。
誰かが同じことを言ったとしても、きっとそれはちがうのだ。
そんなことを、今日はじめて知ったような気がする。
豊松の手紙のことばも、話したことばも、みな、そう。

清水豊松が、大西や矢野と決定的にちがったもの。
それは罪の意識・・・少なくとも、死をもって贖ったり意義を感じるもの。
そんなものは、どうしても彼は持つはずはなかった。



偶然だろうか、中居正広の声と空。
ラストシーンと手紙、未来。
私は、もう一本の主演映画を思い出していた。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

日記内を検索