幻の声―髪結い伊三次捕物余話 (文春文庫)より
ISBN:4167640015 文庫 宇江佐 真理 文藝春秋 2000/04 ¥500
父の実家は、昔、畳屋だった。
おそらく祖父の代まで、戦中までは備後表を商っていたと思う。
広島県の東部に位置する福山市は、備後表の生産地だった。
いぐさから編んでいたわけではなく、畳表を仕入れてさらに職人さんに出して出来上がった畳を卸したり商ったりしていたのではないかと思う。
父は次男だが名前に「三」がつくし、実際父がなんとなく話していたことによると、父と伯父の間にもうひとりきょうだいがいたかもしれないが、とにかく父は次男であり男きょうだいの真ん中、だった。
祖父は学問好きの長男である伯父ではなく、体質は虚弱ながらも口が幼い頃からたち(3歳にして畳を納めに来ていた大人に向かって厭味をいってたらしい 笑)、はしっこそうな次男に跡を継がせるつもりで、本人の意思を問うまでもなく商科の高等部に通わせていた。
戦中焼け出され、農家の親類に身を寄せたりなんだり、での苦労があったのか、祖父は50代になるかならないか?で亡くなった。
父の高校生時代のころだった、という。
ここで、祖父の計画は流れてしまった。
英語の教員をしていた伯父は仕事を辞めて家業を継ぎ、父は商科から教員をしていた伯父の手前もあってまじめに勉強していたおかげで受験に間に合い、京都の大学に来ることになった。
祖父を亡くし伯父が跡を継ぐ、ということになって、かえって父は進学の道を選ぶことができた。
この時の伯父の苦労や苦学ながらも進学を許してもらったことは、ひと回り以上年上の伯父へのなかなか返すことは出来ない恩義であるとも思う。
ただし、父本人にいわせれば、それもこれも祖父のおかげ、だと思っていたようだ。
父は学生だった頃、実家からの仕送りがわりに、関西地方の温泉旅館に実家の畳店の集金に回っていたことがよくあったという。
集金できなければ下宿生活はできないわけだし、実家には送る金はない。
さらには集金だけでなく、次の注文を取らねばならない。
遠方の実家からそうそう、お得意先回りにかかれないから、だ。
その頃はもう、ほとんど九州からいぐさを仕入れて・・・、ということだったらしい。
事情はよくわからないけれど、「備後表」を商っていたわけではなかった。
父なりの苦学生時代の話だ。
父は大学を出て、将来有望だと思われる業界の会社に入った。
死ぬまで誇りに思って、好きだと言い続けた会社だったから、父も本望だった、と思う。
父は、働き始めて祖父の遺産と自分の蓄えで結婚する頃には家を建てた。
その時から、10年前に家を建て替えるまでのわが家は、和室が多かった。
その部屋に敷かれていたのは、父の実家からの伝手の畳だった。
昨日手にした本、宇江佐真理氏の「幻の声」に収録されていた「備後表」という短編を読んだ時に、ふとその畳を思い出していた。
この小説に書かれている畳表はもっともっとすばらしいものであったにちがいないけれど、あの頃のうちの畳も、よかった。
小説のなかで出てくる文章を読んでいて、思い出した。
しっかりと太く編んで詰まっている畳表は、年月が経ってもほころぶことはなく、弾力がありながらもきしむことも浮くこともない。埃は掃き出せば十分に出てくるし拭けばさっぱり、とする。
青くさわやかな香りのする新しい時も、裏表返した時もよいが、年月が経って日に焼けようとも光沢がある、表面。
何度か替えたことはあったけれど、最後に替えたのは私がまだ、学生だったころか。
たぶん、畳表を編んだものを近所の畳屋さんに拵えるのを頼んだのだと思う。
伯父はとうに廃業して英語塾を開き、その頃にはとっくにリタイアしてしまっていたから、ほんものの備後表を扱う畳屋が親戚にいたから、福山から畳表を送ってもらって仕上げを近所の畳屋さんに頼んだのだと思う。
10年前、家を建て替えた。
和室はひとつだけ、になった。
木造の築30年くらいの家、がとても過ごしやすい家になった。
ただ、残念だったことはこの和室だった。
新しく入った畳を見て、「こんなにちがうものか」とびっくり、した。
そんなにお金を掛けなかったせいもあるけれど、そのちがいにびっくり、だった。
だから、時々昔の畳の多かった家を懐かしく思い出す。
しっかり、としたあの畳とともに。
今日は、父の命日だ。
もう少し、祖父が生きていたら父は故郷で畳屋を商っていたろうか。
それでも、さっさと自分のしたいように・・・たとえば、電機屋さんにでもなったり、どこかに勤めていたろうか。
子供の頃はそこに居た父を当然のことのように思っていたけれど、その父の人生の選択を思う。
宇江佐真理氏の「備後表」には、「母」を思う男たちがいる。
その「母」は、備後表を拵えることが人生であり誇りのひとで、冥土の土産に自分の拵えた畳の部屋を見てみたい、と願う。
「母」の作る備後表は大層すばらしいので、それはお城やお屋敷に納められて、庶民の彼女が到底眺めることは叶えられるものではないが・・・、というお話。
これが、実に実に染み入る話だった。
後書きでドラマで伊三次を演じた橋之助さんが、このお話はとてもよい回だった、と書かれていた。私は見逃してしまったけれど、機会があれば見てみたい。
ISBN:4167640015 文庫 宇江佐 真理 文藝春秋 2000/04 ¥500
父の実家は、昔、畳屋だった。
おそらく祖父の代まで、戦中までは備後表を商っていたと思う。
広島県の東部に位置する福山市は、備後表の生産地だった。
いぐさから編んでいたわけではなく、畳表を仕入れてさらに職人さんに出して出来上がった畳を卸したり商ったりしていたのではないかと思う。
父は次男だが名前に「三」がつくし、実際父がなんとなく話していたことによると、父と伯父の間にもうひとりきょうだいがいたかもしれないが、とにかく父は次男であり男きょうだいの真ん中、だった。
祖父は学問好きの長男である伯父ではなく、体質は虚弱ながらも口が幼い頃からたち(3歳にして畳を納めに来ていた大人に向かって厭味をいってたらしい 笑)、はしっこそうな次男に跡を継がせるつもりで、本人の意思を問うまでもなく商科の高等部に通わせていた。
戦中焼け出され、農家の親類に身を寄せたりなんだり、での苦労があったのか、祖父は50代になるかならないか?で亡くなった。
父の高校生時代のころだった、という。
ここで、祖父の計画は流れてしまった。
英語の教員をしていた伯父は仕事を辞めて家業を継ぎ、父は商科から教員をしていた伯父の手前もあってまじめに勉強していたおかげで受験に間に合い、京都の大学に来ることになった。
祖父を亡くし伯父が跡を継ぐ、ということになって、かえって父は進学の道を選ぶことができた。
この時の伯父の苦労や苦学ながらも進学を許してもらったことは、ひと回り以上年上の伯父へのなかなか返すことは出来ない恩義であるとも思う。
ただし、父本人にいわせれば、それもこれも祖父のおかげ、だと思っていたようだ。
父は学生だった頃、実家からの仕送りがわりに、関西地方の温泉旅館に実家の畳店の集金に回っていたことがよくあったという。
集金できなければ下宿生活はできないわけだし、実家には送る金はない。
さらには集金だけでなく、次の注文を取らねばならない。
遠方の実家からそうそう、お得意先回りにかかれないから、だ。
その頃はもう、ほとんど九州からいぐさを仕入れて・・・、ということだったらしい。
事情はよくわからないけれど、「備後表」を商っていたわけではなかった。
父なりの苦学生時代の話だ。
父は大学を出て、将来有望だと思われる業界の会社に入った。
死ぬまで誇りに思って、好きだと言い続けた会社だったから、父も本望だった、と思う。
父は、働き始めて祖父の遺産と自分の蓄えで結婚する頃には家を建てた。
その時から、10年前に家を建て替えるまでのわが家は、和室が多かった。
その部屋に敷かれていたのは、父の実家からの伝手の畳だった。
昨日手にした本、宇江佐真理氏の「幻の声」に収録されていた「備後表」という短編を読んだ時に、ふとその畳を思い出していた。
この小説に書かれている畳表はもっともっとすばらしいものであったにちがいないけれど、あの頃のうちの畳も、よかった。
小説のなかで出てくる文章を読んでいて、思い出した。
しっかりと太く編んで詰まっている畳表は、年月が経ってもほころぶことはなく、弾力がありながらもきしむことも浮くこともない。埃は掃き出せば十分に出てくるし拭けばさっぱり、とする。
青くさわやかな香りのする新しい時も、裏表返した時もよいが、年月が経って日に焼けようとも光沢がある、表面。
何度か替えたことはあったけれど、最後に替えたのは私がまだ、学生だったころか。
たぶん、畳表を編んだものを近所の畳屋さんに拵えるのを頼んだのだと思う。
伯父はとうに廃業して英語塾を開き、その頃にはとっくにリタイアしてしまっていたから、ほんものの備後表を扱う畳屋が親戚にいたから、福山から畳表を送ってもらって仕上げを近所の畳屋さんに頼んだのだと思う。
10年前、家を建て替えた。
和室はひとつだけ、になった。
木造の築30年くらいの家、がとても過ごしやすい家になった。
ただ、残念だったことはこの和室だった。
新しく入った畳を見て、「こんなにちがうものか」とびっくり、した。
そんなにお金を掛けなかったせいもあるけれど、そのちがいにびっくり、だった。
だから、時々昔の畳の多かった家を懐かしく思い出す。
しっかり、としたあの畳とともに。
今日は、父の命日だ。
もう少し、祖父が生きていたら父は故郷で畳屋を商っていたろうか。
それでも、さっさと自分のしたいように・・・たとえば、電機屋さんにでもなったり、どこかに勤めていたろうか。
子供の頃はそこに居た父を当然のことのように思っていたけれど、その父の人生の選択を思う。
宇江佐真理氏の「備後表」には、「母」を思う男たちがいる。
その「母」は、備後表を拵えることが人生であり誇りのひとで、冥土の土産に自分の拵えた畳の部屋を見てみたい、と願う。
「母」の作る備後表は大層すばらしいので、それはお城やお屋敷に納められて、庶民の彼女が到底眺めることは叶えられるものではないが・・・、というお話。
これが、実に実に染み入る話だった。
後書きでドラマで伊三次を演じた橋之助さんが、このお話はとてもよい回だった、と書かれていた。私は見逃してしまったけれど、機会があれば見てみたい。
コメント
畳って、「されど・・・」なんですよね〜。
あの良さは体験してみないと分からないと思います。
我が家も、昭和の古い家の時の畳のほうが、数倍もしっかりしてたように思います。
見てくれは、今のはいいのですが・・・。
お父様、喜んで居られるでしょう。
お母様、お大事に!
さきほど日記をアップしなおし(本のレビューにしようと・・・)ましたら、うっかりコメントいただいた日記を削除してしまいましたので、いただいたコメントまで消えてしまいました。
幸い、ちゃんと内容は残っていましたので、出させていただきました。
私の名前の書き込みになってしまいましたが・・・・
つたない文章、わかりにくい文章になったのが恥ずかしくて何度も書き直しましたが、アミさまに書いていただいたこと、胸が熱くなりました。
ありがとうございました。
アミさんの仰るように、ずっしりと手ごたえのある文章で、良いものをありがとう〜!
何よりもタイトルが秀逸ですね。
お父様、こういう風に書いてもらってきっと「満更でもないな」って喜んでますよ。
ご命日の良い記念になったことと思います。
味わい深いさらさワールドに触れて、思わず出てきました。
相変わらず筆が冴えていますね。
上質の短編小説を読んだあとのような気分です。
お父様の人生を垣間見たような気がしました。
さだまさしファンのお母様もお元気で海外旅行へ行っていらしたのですね。
コンサートにもお出かけになれれるといいですね。
またちょくちょくコメント欄にお邪魔させていただきます。
こんばんは。
いつもブログは読ませていただいていますが、私はなかなかお邪魔できずにいるのに、いつもありがとうございます。
タイトルは・・・宇江佐さんの短編のタイトルなんですよ。
宇江佐さんの文章に触れて、この日記を書きました。
よいことばに出会えると、心持ちまで豊かになれそうな気がします。
平凡な父のことを書いて、そんな風に読んでいただけたことは本当に思いがけなくありがたいです。
晩年の父のことは今でも悔やむことが多いのですが、私が直接知らない父のことを記してみたかった、というのもあります。
寒い折です、雪月花さんもお体に気をつけてください。
こんばんは。忘れないで読んでくださってありがとうございます。
ご無沙汰ばかりをしていて申し訳ありません。
しばらくゆっくりとものを書くことが出来ずにいて、ずっともどかしい思いをしておりました。今回もなかなか、うまく書けなくて何度も書き直してしまいました。
それなのに、私が書く以上に汲み取ってくださってとても嬉しいです。
母とは旅行先で、新年初っ端からさださんの番組を見て初笑い、でした。
まこと幸先よい年明け、でした。
サマーさんもどうぞ、お体に気をつけてお過ごし下さい。
また、いつかお会いできますように。