「ひとは生き直せる」
2006年1月5日 ドラマ。古畑任三郎シリーズ最終回(ほんとかな〜、ほんとにもうやらない?笑)。
古畑が一番最後に追い詰めた犯人に、シリーズ最初の犯人の今を語り、言った言葉。
その今が、幸福であることがまた、ニクい。
私がこのシリーズを見ていて、いつも気になっていたのは、推理モノだから当たり前なんだけど、まったくといって被害者に対する同情心がなさすぎるということ、潔すぎる犯人とトリックを楽しみすぎる古畑。(でも、ハマっていたわけでもないので、全部を見尽くしていないから、適当に書いてます←逃げてるな・笑)
たとえば今夜の「ラスト・ダンス」。
松嶋さんの好演のせいか、被害者の妹・かえでの方が魅力的だった。彼女もまた、密かに姉に対するコンプレックスを抱いていて、騒音だらけで他人に干渉されないクラブでだけ自分を顧みることが出来る孤独な女性であり、姉の独立宣言に対しても内心怯えているのがわかる。
彼女は、決して殺されていい人ではないのだけれど、もみじもまた、殺人へと突き進む。彼女がシナリオライター、というのも実にピッタリな設定だった。
推理モノの常として、謎解きの常としての予定調和、トリックの華やかさと演出・音楽で盛り上がるエンタテイメント。
そういう魅力とともに、ピリリと効かせる薬味のような役者の演技。
それが第一の魅力だというのは重々わかりつつ、野暮なことが気になっていたわけだけども。
今回、見ていて思った。
古畑は「犯罪を憎んで人を憎まず、」よりも一歩も二歩も進んで、犯人の思いに同化する。場合によっては犯人に怒りを感じることがあったとしても、犯行に至る動機に同化していくのかもしれない。いつも、飄々としていて必要以上にウェットなことは言わない、けどね。
回によって、犯人の人柄によって、かなり振り幅はあるものの、迷いはないらしい。(少なくとも画面上では)
まあ、木村さんの演じた犯人は古畑さんの美学に、かなり反していたようで、殴られてましたけども。
ドラマでは描かれないが、古畑は、自分が追い詰めた犯人達の行く先を案じ、見届ける人だ。そんな人が、ほかの関係者に思いを寄せないわけはないのだけど、きっと彼は迷いを見せない。
その古畑の内面と姿勢を感じさせたのが、最終回のこの台詞だと思う。
こういうのを聞くと、またドラマ「砂の器」を思うのだよね。
あの後の、和賀さん、秀夫は生き続けなきゃいけない。
どう生きるのか。
自分の責任は自分でしか負えない、自分の人生を生きるのもまた、自分しかいない。
それでも、幸せになりたい、と思ってもいいのだ。
ひとを愛し、幸せにしても、いいのだ。
古畑ファイナル、第一夜はまだ未見。
昨日は、温泉に行っていて、そこで見ていた。
イチローは、さすが存在感があり素人(役者として)にしては、とてもうまかったと思う。
本人が本人を演じる、という点でSMAPの時と重なる。
SMAPと同様、私たちが知るイチローそのもの、という本人像が忠実に描かれ(テレビで見るイチロー、ただしコアなファンから見ると、きっと、本人と違う。そこがまた、コアなファンにはたまらない)台詞やトリックがそこに終始しすぎているように思えたが、それである程度、成功したともいえる。
三谷さん、すごいな。
「有頂天ホテル」も楽しみだ。
古畑が一番最後に追い詰めた犯人に、シリーズ最初の犯人の今を語り、言った言葉。
その今が、幸福であることがまた、ニクい。
私がこのシリーズを見ていて、いつも気になっていたのは、推理モノだから当たり前なんだけど、まったくといって被害者に対する同情心がなさすぎるということ、潔すぎる犯人とトリックを楽しみすぎる古畑。(でも、ハマっていたわけでもないので、全部を見尽くしていないから、適当に書いてます←逃げてるな・笑)
たとえば今夜の「ラスト・ダンス」。
松嶋さんの好演のせいか、被害者の妹・かえでの方が魅力的だった。彼女もまた、密かに姉に対するコンプレックスを抱いていて、騒音だらけで他人に干渉されないクラブでだけ自分を顧みることが出来る孤独な女性であり、姉の独立宣言に対しても内心怯えているのがわかる。
彼女は、決して殺されていい人ではないのだけれど、もみじもまた、殺人へと突き進む。彼女がシナリオライター、というのも実にピッタリな設定だった。
推理モノの常として、謎解きの常としての予定調和、トリックの華やかさと演出・音楽で盛り上がるエンタテイメント。
そういう魅力とともに、ピリリと効かせる薬味のような役者の演技。
それが第一の魅力だというのは重々わかりつつ、野暮なことが気になっていたわけだけども。
今回、見ていて思った。
古畑は「犯罪を憎んで人を憎まず、」よりも一歩も二歩も進んで、犯人の思いに同化する。場合によっては犯人に怒りを感じることがあったとしても、犯行に至る動機に同化していくのかもしれない。いつも、飄々としていて必要以上にウェットなことは言わない、けどね。
回によって、犯人の人柄によって、かなり振り幅はあるものの、迷いはないらしい。(少なくとも画面上では)
まあ、木村さんの演じた犯人は古畑さんの美学に、かなり反していたようで、殴られてましたけども。
ドラマでは描かれないが、古畑は、自分が追い詰めた犯人達の行く先を案じ、見届ける人だ。そんな人が、ほかの関係者に思いを寄せないわけはないのだけど、きっと彼は迷いを見せない。
その古畑の内面と姿勢を感じさせたのが、最終回のこの台詞だと思う。
こういうのを聞くと、またドラマ「砂の器」を思うのだよね。
あの後の、和賀さん、秀夫は生き続けなきゃいけない。
どう生きるのか。
自分の責任は自分でしか負えない、自分の人生を生きるのもまた、自分しかいない。
それでも、幸せになりたい、と思ってもいいのだ。
ひとを愛し、幸せにしても、いいのだ。
古畑ファイナル、第一夜はまだ未見。
昨日は、温泉に行っていて、そこで見ていた。
イチローは、さすが存在感があり素人(役者として)にしては、とてもうまかったと思う。
本人が本人を演じる、という点でSMAPの時と重なる。
SMAPと同様、私たちが知るイチローそのもの、という本人像が忠実に描かれ(テレビで見るイチロー、ただしコアなファンから見ると、きっと、本人と違う。そこがまた、コアなファンにはたまらない)台詞やトリックがそこに終始しすぎているように思えたが、それである程度、成功したともいえる。
三谷さん、すごいな。
「有頂天ホテル」も楽しみだ。
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