「テオドラ妃と女官たち」
2005年12月16日 旅。
イタリア・ラベンナにあるサン・ヴィターレ聖堂のビザンチン風モザイク画です。
数日前にアップした「ユスティニアヌス帝と重臣たち」のユスティニアヌス帝のお妃にして、共同統治者。
この絵にしても、「ユスティニアヌス帝と重臣たち」の真向かいにありますが、堂々たるもの。
このテオドラ妃ですが、私は猛女、と書いたけれど、正しくは「女傑」くらいでいいのかな?と訂正。
でしゃばりで勝気だったそうだけれど、悪女、猛女、というほどでもないのかなー。
しかし、彼女はなんと生まれはサーカス団の団長の娘。
舞台ではコメディ女優、それからこの時代の女優ですから、エロティックな見世物にも出ていたといわれ、その大胆な振る舞いや奔放な身銭稼ぎについては、なにかと諸説があるそうですが・・・。
未婚の母にもなっていた、とも言われています。
それから、高級官僚の奥さんに納まり、リビアに共に赴任・・・しかし、早々に破局となって、東方を廻った後に、コンスタンティノープルに帰ってきて、運命の出会い。
皇帝となるユスティニアヌスと知り合い、恋に落ちるのですが、ユスティニアヌス、余程テオドラに惚れこんでしまったのか、元老議員が一介の怪しげな女優との結婚するのを禁じる法律を変えてしまいます。
そうして、ユスティニアヌスとテオドラは結ばれることに。
ユスティニアヌスは皇帝の甥ではあったけれど農家出身ということもあるのか、殊のほか勤勉で質素堅実。
テオドラは、派手で優雅で豪華な生活を好んだといわれていますが、まだ20代前半、小柄で色白、繊細で瞳の輝く溌剌とした美女だったそうなので、無理はないのかも。
しかし、このテオドラ、地位にあかせて贅沢三昧ばかりの生活を送っていただけではなかったようで。
外交の才があったといわれ、また、ローマ教皇の罷免、追放までしていたようで、それは「寵妃の口出し」というよりは、ユスティニアヌス帝が共同統治者、パートナーとして尊重していた、と評価されているようです。
若い頃の経験がそうさせるのか、女性の保護、育成にも力を入れていたようで、女性の再婚を認める法律を作ったり、娼婦の更生施設や修道院を作ったり、病院を私費で作ったといわれています。
彼女の最大のハイライトとして有名なのが、ニケの反乱。
ユスティニアヌスの領土回復のための再征服に備えた増税、市民サービスとしての「パンとサーカス」の縮小に反発した市民の反乱に、皇帝と対立する元老議員が他の皇帝候補を担ぎ上げて便乗、その勢いに弱気になったユスティニアヌス帝が逃亡を決意、船で逃げ出そうとしたときのこと。
「たとえそれによって命ながらえるとしても、今は逃げる時ではありません。この世に生まれた者は死ぬのが定めとはいえ、皇帝であった者が亡命者となるのは耐えられますまい。私はこの紫の衣を脱ぎたくはありません。出会う人々が私に向かって『皇后陛下』と呼びかけないような日々を送るのはごめんです。生き延びたいとお思いでしたら、陛下、難しいことではありません。お金もたっぷりあります。目の前は海、船も用意されています。けれどもお考えください。そこまでして生きながらえたところで、果たして死ぬより良かったといえるようなものでしょうか。私はいにしえの言葉が正しいと思います。『帝衣は最高の死装束である』と。」(プロコピオス『戦史』第1巻24章・「共和制ローマ」管理人DSSSMさま訳引用)
なっがい、引用でした・・・。(ゼイゼイ)
とまあ、言ったとか言わないとか。(笑)
とにもかくにも、踏みとどまれ!という彼女の一喝が効いて(笑)でまあ、「大帝」となりえることができた、ということで。
ここまで書いててなんですが、私は彼女のバイタリティは好きで、調べてはみたんですが、この結果・・・・・反乱軍は根絶やしになってんだから、一方で見たら・・・、ってことですね。
ここでわれわれの常識を持ち出すことはナンセンスなんでしょうが、反乱した市民を虐殺することと女性の地位向上に努める面を持ち合わせていることは矛盾はしてこないんでしょうねえ。
そして、彼女は恐らく、40代で癌で亡くなり、10いくつも年上の皇帝が遺されます。
ふたりの間には子供がいず、皇帝が83歳で亡くなった時にも、その子がいなかった、とされます。
現地ガイドさんの解説されていたことによると、テオドラ妃と結婚したことによって、ユスティニアヌス帝の運が開けた、上がった、というのが定説なようで・・・・。下世話な言い方なんですが「あげ○ん」ってこと?とつい口について出そうな自分がいて・・・・言いませんでした。というのが、大きな思い出です。(←恥ずかしいやつ)
数日前にアップした「ユスティニアヌス帝と重臣たち」のユスティニアヌス帝のお妃にして、共同統治者。
この絵にしても、「ユスティニアヌス帝と重臣たち」の真向かいにありますが、堂々たるもの。
このテオドラ妃ですが、私は猛女、と書いたけれど、正しくは「女傑」くらいでいいのかな?と訂正。
でしゃばりで勝気だったそうだけれど、悪女、猛女、というほどでもないのかなー。
しかし、彼女はなんと生まれはサーカス団の団長の娘。
舞台ではコメディ女優、それからこの時代の女優ですから、エロティックな見世物にも出ていたといわれ、その大胆な振る舞いや奔放な身銭稼ぎについては、なにかと諸説があるそうですが・・・。
未婚の母にもなっていた、とも言われています。
それから、高級官僚の奥さんに納まり、リビアに共に赴任・・・しかし、早々に破局となって、東方を廻った後に、コンスタンティノープルに帰ってきて、運命の出会い。
皇帝となるユスティニアヌスと知り合い、恋に落ちるのですが、ユスティニアヌス、余程テオドラに惚れこんでしまったのか、元老議員が一介の怪しげな女優との結婚するのを禁じる法律を変えてしまいます。
そうして、ユスティニアヌスとテオドラは結ばれることに。
ユスティニアヌスは皇帝の甥ではあったけれど農家出身ということもあるのか、殊のほか勤勉で質素堅実。
テオドラは、派手で優雅で豪華な生活を好んだといわれていますが、まだ20代前半、小柄で色白、繊細で瞳の輝く溌剌とした美女だったそうなので、無理はないのかも。
しかし、このテオドラ、地位にあかせて贅沢三昧ばかりの生活を送っていただけではなかったようで。
外交の才があったといわれ、また、ローマ教皇の罷免、追放までしていたようで、それは「寵妃の口出し」というよりは、ユスティニアヌス帝が共同統治者、パートナーとして尊重していた、と評価されているようです。
若い頃の経験がそうさせるのか、女性の保護、育成にも力を入れていたようで、女性の再婚を認める法律を作ったり、娼婦の更生施設や修道院を作ったり、病院を私費で作ったといわれています。
彼女の最大のハイライトとして有名なのが、ニケの反乱。
ユスティニアヌスの領土回復のための再征服に備えた増税、市民サービスとしての「パンとサーカス」の縮小に反発した市民の反乱に、皇帝と対立する元老議員が他の皇帝候補を担ぎ上げて便乗、その勢いに弱気になったユスティニアヌス帝が逃亡を決意、船で逃げ出そうとしたときのこと。
「たとえそれによって命ながらえるとしても、今は逃げる時ではありません。この世に生まれた者は死ぬのが定めとはいえ、皇帝であった者が亡命者となるのは耐えられますまい。私はこの紫の衣を脱ぎたくはありません。出会う人々が私に向かって『皇后陛下』と呼びかけないような日々を送るのはごめんです。生き延びたいとお思いでしたら、陛下、難しいことではありません。お金もたっぷりあります。目の前は海、船も用意されています。けれどもお考えください。そこまでして生きながらえたところで、果たして死ぬより良かったといえるようなものでしょうか。私はいにしえの言葉が正しいと思います。『帝衣は最高の死装束である』と。」(プロコピオス『戦史』第1巻24章・「共和制ローマ」管理人DSSSMさま訳引用)
なっがい、引用でした・・・。(ゼイゼイ)
とまあ、言ったとか言わないとか。(笑)
とにもかくにも、踏みとどまれ!という彼女の一喝が効いて(笑)でまあ、「大帝」となりえることができた、ということで。
ここまで書いててなんですが、私は彼女のバイタリティは好きで、調べてはみたんですが、この結果・・・・・反乱軍は根絶やしになってんだから、一方で見たら・・・、ってことですね。
ここでわれわれの常識を持ち出すことはナンセンスなんでしょうが、反乱した市民を虐殺することと女性の地位向上に努める面を持ち合わせていることは矛盾はしてこないんでしょうねえ。
そして、彼女は恐らく、40代で癌で亡くなり、10いくつも年上の皇帝が遺されます。
ふたりの間には子供がいず、皇帝が83歳で亡くなった時にも、その子がいなかった、とされます。
現地ガイドさんの解説されていたことによると、テオドラ妃と結婚したことによって、ユスティニアヌス帝の運が開けた、上がった、というのが定説なようで・・・・。下世話な言い方なんですが「あげ○ん」ってこと?とつい口について出そうな自分がいて・・・・言いませんでした。というのが、大きな思い出です。(←恥ずかしいやつ)
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