そして、「最後の晩餐」
2005年10月28日 旅。
ミラノは、2泊だったのですが、1泊目は、着いてすぐ寝ただけだったし、実質1日だけだったかな、という感じ。
見所は、いくつか押さえやすいそうなので、こんな感じだろうか、でも、きっとショッピングとか行けたらもっと楽しそうだ。
なんといっても、ここでのハイライトは「最後の晩餐」鑑賞である。
その間に時間があったということで、スフォルツエスコ城(ミラノの領主の居城)と、平和の門、センピオーネ公園を見たり・・・・と過ごし、いよいよ。
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の旧食堂にある、「最後の晩餐」の見学は、定員25名、時間は15分に限られている。
完全予約制、といわれていて、私たちもツアーで予約が取ってあった。
けれど、個人でも英語で電話予約が出来るそうだし、時間がある方は、当日や前日に、まず窓口で予約を取ってから再度予約時間の20分前に来る、ということでも大丈夫らしい。(運がよければ、すぐに入れることもあるみたいだけれど、混んでいると当日予約も出来ないことも?)
15分、というが長い。
集中して見ていると、充分だといえる。(勿論、詳しい方には足りないくらいだろうが)
中でのガイドや添乗員の説明は禁止されているので、私たちは前もって、入る前に解説をしていただいて、コピーの解説を手に持ち、旧食堂に入った。
思ったより色は淡い(度重なった後世の塗装を取り払ったから?)。しかし、古さは感じない。
今度の旅行でも沢山見ることが出来た、宗教画群とも印象がちがう感じ。
論理的な動く映像でありながら、静的なダ・ヴィンチのタッチ。
イエスと12人の弟子たちを近くから見ているだけで、飽きない。
しかし、少し距離を置いて、正面から見ているのが一番、よかった。
食卓、人物たちの後ろの窓から見える風景、空の青。
そして、食卓の下の人物たちの足元、食卓に並ぶ食物と皿といった静物、といった箇所も、実に緻密。
これでも、失われた線や色がもっとあるのだから・・・。
まるで、貸切のような心持ち。
絵と対面できたような、心持ち。
描かれた当時、教会の食堂にはお決まりの題材だったといわれ、あらゆる時代あらゆるところで、格好の題材だとされ、描かれて来た「最後の晩餐」の中で、なぜこの絵がこれほどに人を惹きつけるのだろう。
それは、宗教的解釈だけではない論理性。(?)
ハッと見ている側の胸に迫る体感を感じさせる根拠が、この絵の論理性ゆえだからなのかも。
その論理性と緊迫感・体感ゆえに、時の経過が本当に感じられない。
ところで。
「ダ・ヴィンチコード」の話は、ガイドさんの解説にも出てきた。
その説が正しいかどうかはわからない。
しかし、イエスの右隣に座るヨハネ(マグダラのマリア?)の美しさは独特で、イエスと共に諦念に沈んでいるようにも瞑想に耽っているようにも見える。
私は、彼(彼女?)にとても魅せられた。
数年前までは、撮影可能だったらしいが、現在は不可。
なので、買って帰ってきた絵葉書を写してみました。(笑)
でも、やっぱり百聞は一見に如かず、だな、とも思うので、撮影不可、というのがかえってよかったのかも。
15分はこの絵と対面していたことが、とても幸福でした。
見所は、いくつか押さえやすいそうなので、こんな感じだろうか、でも、きっとショッピングとか行けたらもっと楽しそうだ。
なんといっても、ここでのハイライトは「最後の晩餐」鑑賞である。
その間に時間があったということで、スフォルツエスコ城(ミラノの領主の居城)と、平和の門、センピオーネ公園を見たり・・・・と過ごし、いよいよ。
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の旧食堂にある、「最後の晩餐」の見学は、定員25名、時間は15分に限られている。
完全予約制、といわれていて、私たちもツアーで予約が取ってあった。
けれど、個人でも英語で電話予約が出来るそうだし、時間がある方は、当日や前日に、まず窓口で予約を取ってから再度予約時間の20分前に来る、ということでも大丈夫らしい。(運がよければ、すぐに入れることもあるみたいだけれど、混んでいると当日予約も出来ないことも?)
15分、というが長い。
集中して見ていると、充分だといえる。(勿論、詳しい方には足りないくらいだろうが)
中でのガイドや添乗員の説明は禁止されているので、私たちは前もって、入る前に解説をしていただいて、コピーの解説を手に持ち、旧食堂に入った。
思ったより色は淡い(度重なった後世の塗装を取り払ったから?)。しかし、古さは感じない。
今度の旅行でも沢山見ることが出来た、宗教画群とも印象がちがう感じ。
論理的な動く映像でありながら、静的なダ・ヴィンチのタッチ。
イエスと12人の弟子たちを近くから見ているだけで、飽きない。
しかし、少し距離を置いて、正面から見ているのが一番、よかった。
食卓、人物たちの後ろの窓から見える風景、空の青。
そして、食卓の下の人物たちの足元、食卓に並ぶ食物と皿といった静物、といった箇所も、実に緻密。
これでも、失われた線や色がもっとあるのだから・・・。
まるで、貸切のような心持ち。
絵と対面できたような、心持ち。
描かれた当時、教会の食堂にはお決まりの題材だったといわれ、あらゆる時代あらゆるところで、格好の題材だとされ、描かれて来た「最後の晩餐」の中で、なぜこの絵がこれほどに人を惹きつけるのだろう。
それは、宗教的解釈だけではない論理性。(?)
ハッと見ている側の胸に迫る体感を感じさせる根拠が、この絵の論理性ゆえだからなのかも。
その論理性と緊迫感・体感ゆえに、時の経過が本当に感じられない。
ところで。
「ダ・ヴィンチコード」の話は、ガイドさんの解説にも出てきた。
その説が正しいかどうかはわからない。
しかし、イエスの右隣に座るヨハネ(マグダラのマリア?)の美しさは独特で、イエスと共に諦念に沈んでいるようにも瞑想に耽っているようにも見える。
私は、彼(彼女?)にとても魅せられた。
数年前までは、撮影可能だったらしいが、現在は不可。
なので、買って帰ってきた絵葉書を写してみました。(笑)
でも、やっぱり百聞は一見に如かず、だな、とも思うので、撮影不可、というのがかえってよかったのかも。
15分はこの絵と対面していたことが、とても幸福でした。
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